道路沿いのフェンスに国蝶オオムラサキケージ一般開放日が大きく掲示されていた。空き地を少し入ると左手に緑の網で囲った飼育ケージがあり、市緑と公園係の職員が飼育事業のあらましやチョウの成長過程を説明してくれた。
雑木林再生のシンボルにしたいと飼育を始めて4年目。昨年、ケージを大型化したことで幼虫→さなぎ→羽化→成虫→産卵→ふ化→幼虫のサイクルが実現できたという。
この時期、成虫は残り少なくなり、あいにくの雨もあって飛び回る姿は見られなかった。それでも参加者たちは、葉に産み付けられた卵や餌となるエノキの葉にしがみつく緑色の幼虫を見つけて目を凝らした。
台田の杜は、開発を好まない大地主(6月に98歳で死去)の寄付を受けた1.9ヘクタール。寄付者の祖父が入学祝で植えた記念樹のヤマザクラは樹齢約90年を数え、寄付者の姓を冠した記念公園の碑とともにケージの近くにある。
台田の杜を抜け、しめ縄のようなものが道路をまたいで木の上に張られた場所に出た。しめ縄のようなものは「わらの大蛇」だという。旧清戸下宿村の住民が村境に取り付け、疫病や魔物が侵入しないよう祈願する行事「ふせぎ(塞)」で作った。
幕末の時代に名主だった有力者の母屋を移築復元した旧森田家住宅で昼食を取った後、下宿八幡神社の境内を通り、清瀬で最も古い寺である円通寺へ。天保15年(1844年)に建てられた長屋門をくぐる。庫裏の前の藤棚は葉で埋め尽くされていたが、120年を経たフジの花盛りは見事なものだそうだ。
川沿いに上流の清瀬金山緑地公園へ向かう途中、対岸の埼玉県側から流入する排水の水質に現在も問題があること、天然の岸辺や河畔林を残すなど河川改修工事に住民活動が大きくかかわっていることをガイドの人から聞いた。金山橋から上流の公園管理用道路は、カワセミの生息環境を守るため当初設計よりも低くする要望が通ったという。
管理用道路がほぼ行き止まる所で住宅街の坂道を上り、柳瀬川通りに出て最後の目的地、「中里の富士塚」に着いた。都教委などの説明板によると、文化文政年間の築造とみられ、富士塚の初期のもの。主催者のメンバーは「多摩地方の富士塚では最大級の規模」という。現在でも「火の花祭り」などの講行事が続いている。
鳥居をくぐり、つづら折りの「登山道」を上る。高さは10メートルほどだが、途中、1合目から9合目までの小さな石柱があり、山頂には石製の小さなほこらと大日如来を刻んだ石碑などがあった。今のように周囲に住宅がなければ、この辺で最も高い場所だったろう。本物の富士山のある方角に見当を付け、富士に祈った当時を想像する。