最初に訪れたのは野崎家。母屋は1879(明治11)年に建築され、当主は97歳。この日は15代目という孫の林太郎さんが説明役を務めた。林太郎さんは、屋号の「奈良山」の理由がナラなどのまき材販売にあったことや、柳窪集落の明治時代の測量図にある道や区画が1980(昭和55)年撮影の航空写真とほとんど変わらないことなどを話した。
奥住家には独立した養蚕小屋が残り、空気の流れをよくするため、すのこ状になっている2階の床板が見える。屋号「橋端」の村野家は、銅板ぶきの屋根に変える前に、地元の自由学園の生徒たちが描いたわらぶき屋根の母屋などのスケッチのコピーを展示していた。
最後に見学したのは屋号「天神前」の村野家。村野家住宅は市内に現存する唯一のかやぶき民家と土蔵、薬医門など7件の建造物が国の登録有形文化財になっている。敷地全体は国木田独歩の書から「顧想園(こそうえん)」と名付けられ、春と秋を中心に公開される。
薬医門の扉がケヤキの一枚板であることや屋根のふき替えは毎年7分の1ずつ行われることなどが説明された。農家に不相応な玄関の式台は、昭和の初めに秩父宮が来訪するために設けられたことが近年、蔵の中の資料からわかったという。
座敷には上がれなかったが、離れの奥の間の床柱に、くわによるものらしい傷痕が見えた。幕末に起きた関東の大きな農民一揆「武州世直し一揆」が押し寄せた時のもので、田無の農兵隊が銃で鎮圧。死者8人、負傷者多数と伝えられる。
園内の休憩所で見学者たちを迎えてくれた園主の美代子さんは、顧想園で行われる文化行事などを収めたDVDが前日届いたばかりであることを紹介し、「これからはモミジがきれいになります。ぜひ、また来てください」と呼びかけた。
今後の特別見学会は顧想園サポート倶楽部の主催で10月25日と11月19日に行われる。問い合わせは事務局042・344・6735へ。(下の写真は左から将来の後継者が解説してくれた野崎家、約50年前にかやぶきから銅板ぶきになったもう一つの村野家)