東京・板橋区 石神井川中流と旧板橋宿を訪ねる

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民間有志でつくる北多摩自然環境連絡会の「ウオッチング」が1024日、「石神井川中流と旧板橋宿を訪ねる」と題して東京都板橋区南東部の板橋エリアであり、15人がまち歩きを楽しんだ=写真は石神井川に架かる板橋。

 東京都公園協会緑と水の市民カレッジ専任講師の豊福正己さんが企画・案内する年間テーマ「水と緑めぐり」(全5回)の4回目。

 東武東上線中板橋駅南口を午前1020分ごろ出発。最初の見どころは駅から10分ほどの下頭橋(げとうばし)と六蔵祠(ろくぞうほこら)。旧川越街道の下頭橋通りが石神井川に出た所にある。共に区の史跡で、江戸後期に石橋に架け替えられたことにまつわる話が伝わる。

 下頭橋から中根橋まで石神井川の右岸を下流へ向かう。板橋十景の一つ「石神井川の桜並木」に面する中板さくら公園で、豊福さんから川の歴史や板橋の名の由来などを聞く。

 中根橋を渡り、一本北側の道、双葉さくら通りに入る。信号機のある交差点から先は愛染通りに名前が変わる。この通りの北側にある日曜寺、智清寺の山門付近には、かつて石神井川から引き入れた用水があったことを示す小さな石橋が残っていた。

 国道17号(現在の中山道)を渡り、本町商店街を少し進んで左に入ると、交差点の角に「縁切榎(えんきりえのき)」。江戸時代から今も庶民信仰を集め、男女の縁切を願う穏やかならぬ絵馬も見受けられた。幕末に和宮が将軍家茂に嫁入りに向かう時は回り道をしたという。

 ここからは旧中山道が国道17号と交差するまで約1.3キロを歩く。
 縁切榎から数分で石神井川に架かる「板橋」に。地名としての板橋は鎌倉時代にあり、やがて宿場の名になり町名、区名になった。江戸時代の橋は太鼓状の木製だった。

現在の橋は、蛇行を切り替えた旧石神井川にも架かっていて、同じ橋から水の流れと旧河川跡の緑道を見下ろすことができる。私たちは緑道に下りて弁当を食べた。緑道はなぜか猫のたまり場だった。午後の出発前に、板橋宿のにぎわいや宿場の機能などについても勉強した。

板橋宿は、京側から江戸側に向かって「上宿」「中(仲)宿」「平尾宿」と連なる三つの宿場の総称。それぞれに名主が置かれ、大名らが宿泊・休憩する本陣が中宿に1軒、脇本陣が各宿にあった。

和宮が宿泊した中宿脇本陣跡、板橋宿本陣跡、平尾宿脇本陣跡とたどったが、どこも記念の石柱や解説板が立つだけで、その背後には集合住宅がそびえていた。

 街道の左側に文殊院、遍照寺、観明寺、東光寺があり、境内や墓地を見て回る。文殊院には郵jの墓、観明寺と東光寺には青面(しょうめん)金剛像を彫った庚申塔(こうしんとう)があるが、観明寺の方が寛文元年(1661年)で1年早く、都内では最古という。

 東光寺からは都立北園高グラウンド横の道を北東に進み、10分ほどで最終目的地の区立加賀公園に着いた。この一帯は加賀前田家下屋敷で、広さは金沢・兼六園の約7倍に及び、江戸にあった大名屋敷で最大。築山の一部だけが公園として残った。

 築山の中腹に崩れかけたコンクリート製の壁のようなものが見えた。戦前、この辺りに火薬製造所があり、火薬の種類や量を変えて弾丸の速度や弾道を検査・測定する標的だったという。

 築山に上ると、弾丸を打ち出すための、コンクリート製の土管をつなぎ合わせたような弾道検査管が見えた。今までの江戸時代への郷愁めいた気分が吹き飛び、硝煙と血のにおいの満ち満ちたおぞましい世界に引きずり込まれた錯覚に陥った。

 築山を下り、石神井川に架かる金沢橋付近で午後3時半ごろ解散した。(下の写真は左から中宿脇本陣跡を示す解説板、加賀公園に残る戦争遺跡)
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