自然と史跡満喫 練馬区・石神井公園を歩く

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 西東京市郷土文化会の4月例会は3日、東京都練馬区の都立石神井公園とその周辺で行われ、初夏を思わせる陽気のもとで30人が豊かな自然や地域の歴史の跡をたどった=写真は三宝寺池

 出発地点の西武池袋線石神井公園駅西口から郷土史家の葛城明彦さんが案内してくれた。

 大正時代の武蔵野鉄道石神井駅開業を記念する石碑を皮切りに作家檀一雄、女優檀ふみが暮らした邸宅跡付近を経て石神井池へ。

 池の北側の対岸を指し、「石神井地区で地価が最も高い高級住宅地」と、葛城さんは現代にも精通している。

 野外ステージは米軍機が投下した1トン爆弾が爆発した地点であり、池の中に立つモニュメントが彫刻家三澤健司氏の作品であることなど、表示がないため知られざるポイントを時代背景とともに知ることができた。

 池淵史跡公園を一回りし、庚申塚(こうしんづか)は後世ほど簡略化が進むことなどを教わり、練馬最後のかやぶき屋根の農家「旧内田家住宅」を見学。上石神井公園ふるさと文化館では縄文時代の遺物展示から昭和3040年代の暮らしを再現した常設展示室を見た。

 三宝寺池水辺観察園は、以前は釣り堀。付近には日本初の100メートルプールもあり、どちらも写真が残っている。水辺観察園のそばに1軒だけ残る大正からの茶屋も当代限りといわれる。

 この先の三宝寺池沼沢植物群落は国指定天然記念物。約2万年前の氷河期から残るミツガシワはちょうど花盛り。白い小さな花をたくさん着けて房を形づくっていた。

 メタセコイアなどの高木の間を縫うように池の北側の園路を歩き、丘を上って、石神井城主や落城にまつわる伝説のある「殿塚」と「姫塚」に立ち寄った。

 姫塚から10分ほどの間にも日本銀行グラウンド跡や戦時中に陸軍が作った偽札を管理したとされる登戸研究所分室跡、移転してもなお都内の最高気温を記録することが多い練馬アメダス観測所(松の風文化公園内)を眺めた。若葉が吹き出して天を黄緑色に覆う野鳥誘致林は、太田道灌に攻め落とされた外城の跡と考えられるという。

 住宅街に出た。三宝寺池の西南端の崖上にあたる。まっすぐに延びる道路の280メートルが大規模な堀の跡とは想像が及ばない。堀は舌状台地の付け根部分を断ち切る。その長さを歩いて実感させ、到達すると、道灌の軍勢が目前に迫っていることを話して仮想現実へ導く。葛城さん、なかなかの戦略家。

 堀跡を往復し、三宝寺池に下りる。石神井城からの抜け穴と伝わる穴弁天、すぐそばの厳島神社石神井城跡の碑を見て、再び高台へ。

 林の中の小道の所々に建物の礎石と小さな広場があり、太宰治が訪れた茶屋・見晴亭の跡だったり、檀一雄が一時住んでいた石神井ホテルの跡だったり、共産党綱領草案が作られた豊島館跡だったりした。ホテルと旅館は戦時中、成増飛行場の兵士たちのための慰安所にもなったという。

 金網で囲まれ、ふだんは入れない石神井城の中心部、主郭跡に入ることができた。石神井城は中世の武将、豊島氏の最後の本拠地。北は三宝寺池、南・東は石神井川によって守られ、人工の防御は空堀と土塁。この時代の城跡で保存状態がよいのは都内で極めて少ないという。

 攻め込む敵の側面を弓などで攻撃する、国内最古級の「横矢掛かり」や食料の貯蔵庫と推定される地下式坑の跡があった。

 正午すぎにいったん解散。昼食後、自由参加で引き続き葛西さんのガイドがあり、豊島氏が城の鎮守として建てた氷川神社、城跡周辺の土地を所有する栗原家の長屋門三宝寺の御成門地蔵堂の千体地蔵尊と六道曼荼羅(まんだら)の絵などを見て回った。

 練馬区の特産物は今やダイコンではなく、都内最大の生産量を誇るキャベツだそうだ。そのことを記念する「甘藍(かんらん。キャベツの別名)の碑」を最後に訪ねたが、一帯は砂利を敷いた更地になっていて、碑は姿を消していた。時代の荒波を思う一日を象徴する幕切れだった。(下の写真は左から、氷河期を生き残ったミツガシワが花盛り、石神井城主郭跡)
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