野外ステージは米軍機が投下した1トン爆弾が爆発した地点であり、池の中に立つモニュメントが彫刻家三澤健司氏の作品であることなど、表示がないため知られざるポイントを時代背景とともに知ることができた。
池淵史跡公園を一回りし、庚申塚(こうしんづか)は後世ほど簡略化が進むことなどを教わり、練馬最後のかやぶき屋根の農家「旧内田家住宅」を見学。上石神井公園ふるさと文化館では縄文時代の遺物展示から昭和30~40年代の暮らしを再現した常設展示室を見た。
姫塚から10分ほどの間にも日本銀行グラウンド跡や戦時中に陸軍が作った偽札を管理したとされる登戸研究所分室跡、移転してもなお都内の最高気温を記録することが多い練馬アメダス観測所(松の風文化公園内)を眺めた。若葉が吹き出して天を黄緑色に覆う野鳥誘致林は、太田道灌に攻め落とされた外城の跡と考えられるという。
住宅街に出た。三宝寺池の西南端の崖上にあたる。まっすぐに延びる道路の280メートルが大規模な堀の跡とは想像が及ばない。堀は舌状台地の付け根部分を断ち切る。その長さを歩いて実感させ、到達すると、道灌の軍勢が目前に迫っていることを話して仮想現実へ導く。葛城さん、なかなかの戦略家。
林の中の小道の所々に建物の礎石と小さな広場があり、太宰治が訪れた茶屋・見晴亭の跡だったり、檀一雄が一時住んでいた石神井ホテルの跡だったり、共産党綱領草案が作られた豊島館跡だったりした。ホテルと旅館は戦時中、成増飛行場の兵士たちのための慰安所にもなったという。
金網で囲まれ、ふだんは入れない石神井城の中心部、主郭跡に入ることができた。石神井城は中世の武将、豊島氏の最後の本拠地。北は三宝寺池、南・東は石神井川によって守られ、人工の防御は空堀と土塁。この時代の城跡で保存状態がよいのは都内で極めて少ないという。
攻め込む敵の側面を弓などで攻撃する、国内最古級の「横矢掛かり」や食料の貯蔵庫と推定される地下式坑の跡があった。
正午すぎにいったん解散。昼食後、自由参加で引き続き葛西さんのガイドがあり、豊島氏が城の鎮守として建てた氷川神社、城跡周辺の土地を所有する栗原家の長屋門、三宝寺の御成門や地蔵堂の千体地蔵尊と六道曼荼羅(まんだら)の絵などを見て回った。
練馬区の特産物は今やダイコンではなく、都内最大の生産量を誇るキャベツだそうだ。そのことを記念する「甘藍(かんらん。キャベツの別名)の碑」を最後に訪ねたが、一帯は砂利を敷いた更地になっていて、碑は姿を消していた。時代の荒波を思う一日を象徴する幕切れだった。(下の写真は左から、氷河期を生き残ったミツガシワが花盛り、石神井城主郭跡)