八丈島(2)八丈富士お鉢巡り=5月15日

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今日の旅は午前8時半、ホテルからレンタルバイク業者に電話することから始まった。「3分で(ホテルに)来れる」という通り、すぐに迎えの車が来た=写真は八丈富士のお鉢巡り。

バイクはすべてスクータータイプで、料金は排気量50㏄未満の原付きかそれ以上の2種類。排気量が最大の150㏄を選んだ。9時から午後5時までの8時間借りて5千円。八丈富士山頂ハイキングで約3時間は無駄になるが仕方ない。

走行距離メーターは12千キロ台と少ないが、相当の旧型で、恥ずかしくなるほど排気音が大きい。

鉢巻道路の登山口駐車場にバイクを止めた。車はここに1台、もう1つの駐車場に1台あった。あとでバイク業者に話すと、混むときは鉢巻道路に長い駐車の列ができるという。

お鉢巡りの道の始点まで1280段の階段が続く。山頂にも雲一つない快晴。「水はボトル1本じゃ足りないよ」との忠告を聞いてよかったと思う。難行苦行。何度も立ち止まっては顔の汗を拭き、水を何口か飲む。振り返ると見える三原山や三根の市街地の景色に少しだけ癒やされる。

観光協会リーフレットによると階段区間の上りは55分。なまくらな体がほぼこの時間で登れたのは驚きだった。途中、中年女性がひとり下りてきて、「今日は雲がないから景色がいいですよ」と声をかけてくれた。

お鉢巡りの道標は時計回りの矢印と50分の所要時間が刻まれていた。ハイキングマップでは山頂まで20分、山頂から道標に戻るまで40分の計60分とゆっくりめになっている。

亀裂や穴に注意し、草をかき分けて進む。風穴をのぞき込み、木々の緑に覆われた中央火口丘に豆粒ほどの池を見て山頂(854メートル)の石柱に着いた。途中、いつの間にか追い付かれた若者2人に先を譲るなどペースダウンし、30分余りかかった。

山頂の石柱を背にすると、三原山と八丈富士の間に空港の滑走路が延び、その左側の三根地区から中央部の大賀郷(おおかごう)までに人口が集中していることがはっきりとわかる。知人によると、島の人口約7500人のうち約6千人がこのベルト地帯に住んでいるという。

石柱を過ぎると、道の凹凸が少なくなり歩きやすい。膝の高さほどのツゲ(ハチジョウイヌツゲ)の群落が続き、しばらくの間、八丈小島を望みながら進む。ガレ場が1カ所あり、足場が滑りやすい。ここは緊張した。

お鉢巡りの出発点に戻ると、疲れと気の緩みで浅間神社に行くのをすっかり忘れてしまった。1周するのに90分もかかっていた。つま先の痛みを我慢して下山すると、午後零時半近くになっていた。

バイクで向かう先はふれあい牧場。鉢巻道路の下の草地で十数頭の黒毛和種が草をはんでおり、毛が茶色で乳用のジャージー種が1頭いた。牛乳を飲めるかもと期待して休憩施設に入ったが、大型連休と夏休み期間だけソフトクリームやアイスクリームを販売しているとの掲示があった。観光客は2組いた。

自販機でココア飲料を飲み、そこそこに出発。鉢巻道路から島の北端の八丈一周道路(都道215号)に下りる。坂の途中の曲がり角に八丈小島を見る展望台がある。見飽きた感がないでもないが、立ち寄って写真を撮る。

一周道路を南へ向かうとすぐ大越園地があり、右側(海側)に廃校となった小学校の門柱やビロウの林の下に生い茂るアシタバが見られる。山側の斜面にはおびただしい数のアロエが栽培されている。「冬に赤い花が咲くときれい」と知人が言っていたのを思い出した。

島の中心部に向かう一周道路と分かれ、海側の道を南原千畳岩へ。看板横の階段を下りると、はや黒々とした大岩がゴロゴロしていたり、平らに見える岩場をよく見ると、流れ出たドロドロの溶岩が順々に冷えて固まっていったことを思わせる波状の痕跡を残していたりする。

最後の溶岩は、今から400年以上前の、江戸時代幕開けのころの八丈富士の噴火によるものだが、今月米ハワイ島キラウエア火山が噴火し、居住地帯をゆっくりと溶岩流が襲う映像がよみがえった。

八丈島が火山の島であることは、このあとファッション小物兼カフェの店でアシタバそばを食べ、「メットウ井戸」と「玉石垣」に立ち寄ってから訪れた樫立(かしたて)地区の黒砂砂丘(六日ヶ原砂丘)でも思い知ることになる。

ここは下調べをしておらず、鳥取砂丘の規模の小さいもので、砂が黒っぽいのだろうと想像していた。一周道路に小さい看板を見つけて脇道に入り、案内板を見つけてさらにバイクを進めた。車だと案内板の近くの小さな駐車場から歩かなければならないようだ。

坂を上っていくと、バイクも走れない山道になり、狭い平地に止めて坂を上る。砂丘というからには海に出るはずが、なぜか山登り。視界に海が現れたが、崖か急斜面の上にいるではないか。足元は確かに砂だが、海砂よりはるかに大きくて荒い。溶岩を細かく砕いたようなものだ。

坂道はなお続く。山側は草が茂っているが、左は足を踏み外そうものならつかまるもの一つない砂の斜面を滑り落ち、ついには崖下へ―と遭難疑いなしの状況。さびて折れた鉄柱やちぎれたロープといった工作物が斜面の所々に転がり落ちていて、ただならぬ事態が起きたことを示していた。

砂丘がどこかを確かめるすべもなく、長居は無用と引き返した。案内板をよく見ると、砂丘山頂の登山道が崩落したので通行しないよう注意を促す紙が貼ってあった。あとで知人に話すと、「行ったのか」とあきれた表情を見せ、「あんな危険な場所を観光地にしておいてはいかん」と語気を強めた。

一周道路に戻り、伊郷名バス停付近から防衛道路に入ってまちの中心部に帰った。防衛道路は、米軍の艦砲射撃で一周道路が寸断されたときに備え、1944年に山間部に造ったバイパス。入ってすぐ右側に穴が見えた。ネット情報を探すと、道路沿いには洞窟陣地がいくつもあるようだが、バイクを返却する時間を考えて観察をあきらめた。

ただ、手書きの「人捨穴」の看板が気になり、近い所に穴を見つけて中をのぞき込んだ。江戸時代、慢性的な飢饉(ききん)に見舞われた時の口減らしに使われたなど諸説あるようだが、いずれにしても長居はためらわれた。(下の写真は八丈富士山頂から三原山を望む、黒毛和牛が放牧されているふれあい牧場、黒い溶岩が重なる南原千畳岩海岸、傾斜のきつい黒砂砂丘
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