昨年、同じ目的地で市民の参加を募ったところ、抽選で外れた人が多かったため、異例の2年連続同一コースとなった。市の大型バスを使い、参加費は施設入場料の計800円。
丸木美術館は画家の丸木位里(いり)(1901~95)、俊(とし)(1912~2000)夫妻が開設して51年目。位里の故郷広島への原爆投下から数日後に夫婦で現地に駆け付けて見た惨状の記憶や多くの被爆体験者の証言をもとに、夫婦共同で描いた「原爆の図」を常設展示していることで知られる。
全15部の連作のうち、1~5部は広島の美術館に貸し出しているため、精巧な複製が展示されていた。第15部は長崎に寄贈したという。
学芸員の岡村幸宣さんは第1部「幽霊」の前で、丸木夫妻はきのこ雲や原爆ドームではなく、「等身大の群像によって原爆を描こうとした」と解説。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で検閲の厳しい50年代に、原爆の図を全国で巡回展示する際、夫妻は持って逃げられるように掛け軸にして携えていたというエピソードも披露した。
連作をゆっくりと鑑賞した後は、別棟の「流々亭」で各自持参した弁当を食べた。流々亭は晩年の丸木夫妻のアトリエ。目の前には位里が「ふるさとの太田川の風景に似ている」としてこの地を選んだ都幾川(ときがわ)が流れる。館内に戻り、夫妻がアトリエ兼書斎にしていた「小高文庫」で、画材などの遺品に二人の姿を想像する人もいた。
現在219の横穴が確認されており、このうち2カ所で内部に入れるという。
ガイドボランティアの案内で階段を上り、最上部に近い、高さ40メートルほどの所にある墓の一つの内部を見学することができた。構造について説明があり、壁の両側にひつぎを置く場所が見える。壁の至る所に名字など落書きが彫られているのには驚かされた。
地上に下りて地下軍需工場跡へ。しかし、開口部からまっすぐに数メートルしか進めなかった。
工場跡はトラックが通れる直径約3メートルのトンネルが碁盤の目状に掘られ、普段は通路を歩ける。今いる下にもトンネルがあるそうだ。だが、地震により公開箇所に小規模な崩落が見られたため、町は6月から一般客の見学を中止して点検と調査を行っている。
太平洋戦争の末期に米軍の空襲を避け、大宮(現さいたま市)の中島飛行機のエンジン部品製造工場を移転しようとした戦跡。それは、東洋一といわれた航空機エンジンの大工場があった武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所への9回に及ぶ空襲と、それに巻き込まれる形で多くの犠牲者を出した西東京市とつながるものがあるだけに、立ち入り禁止を残念至極と思った人は少なくなかったにちがいない。
最後の見どころとなったのはヒカリゴケの発生地。関東地方の平野部で自生しているのは極めて珍しいという穴の奥を2人ずつのぞき込んだ。国の天然記念物のヒカリゴケは、正面の下部に薄く小さな帯状の黄緑色を見せてくれた。(下の写真は昼食場所になった丸木美術館「流々亭」、吉見百穴の軍需工場跡の入り口)