仏教の女性観 武蔵野大で公開講座

「女性と仏教」の研究の展開を話す岩田真美准教授

 「仏教の女性観-浄土真宗を中心に―」と題する公開講座が9月3日、武蔵野大学武蔵野キャンパス(西東京市)であった。

 

 講師は岩田真美(まみ)龍谷大学文学部准教授。武蔵野大学仏教文化研究所が主催し、語られることや女性研究者が少ない「仏教における女性」を統一テーマとした連続公開講座の一つ。

 

 岩田氏は、釈尊は悟りの可能性を性差に関係なく認める「革新的な人」だったが、釈尊の没後は女性出家者の比丘尼(びくに)のほうに男性出家者の比丘(びく)よりも多く戒律が課せられる差別や、仏陀は男性であるという観念も表れる。

 

 大乗仏教では、女性はいったん男性に変身しないと仏になれないという変成男子(へんじょうなんし)の考え方が法華経に見られる。

 

 仏教伝来当初の古代日本の最初の出家者は女性で、日本書紀によると、6世紀末に渡来人の娘ら女性3人が百済へ留学し、正式な比丘尼になって帰国後、多くの尼僧を指導したという。

 

 しかし、律令体制が導入されると政治・宗教・文化のあらゆる面で女性の活動が制限され、男性優位の社会に転換。平安時代になると、女性は仏になれないという五障説や、変成男子説が経典に取り込まれ、貴族を中心に社会に広く浸透し、五障説から生まれた女人不浄観は山岳仏教などでの女人禁制を確立してゆく。

 

 親鸞の女性観については、女性の救済について直接言及したものは極めて少ない。著作を検討すると、変成男子説による女人往生を説く場合と、男女の区別なく一切衆生が等しく救済されるという場合があり、「答えは一つではない」。親鸞の妻も、これまでの資料では女人往生について語っていない。

 

 親鸞以降は本願寺第8世の蓮如のように女人の往生成仏が説かれ、各地に女性の門徒たちが集まる女人講が結成される。近世後期には西本願寺の宗主が女性だけの講を組織化。これらが近代以降は仏教婦人会へと発展する。明治20年代には、婦人会創設の動きは地方へと広がっていった。

 

 日露戦争が勃発し、挙国一致の名のもとに各地に愛国婦人会が結成されると、本願寺も応える形で全国の女性門徒を統一する組織「真宗婦人会」を結成(のちに「仏教婦人会」と改名)。

 

 西本願寺は1909(明治42)年、それまで明確な立場を与えられてこなかった女性に「女教士」の地位を付与したが、女性僧侶(教師・準教師)制度の導入は1931(昭和6)年、さらに女性の住職が認められたのは男性の戦死による住職不在となった戦後のことだった。

 

 このように日本で「女性と仏教」の本格研究が始まったのは1980年代とされる。

 

 岩田氏は、今日の仏教の実践的課題は女性の問題にとどまらず、宗教が作り上げたジェンダーの平等の実現をはじめ、「誰一人取り残さない」を理念とするSDGs(持続可能な開発目標)と取り組む必要があると強調した。