非核・平和をすすめる西東京市民の会と西東京市が主催するピースウォークが10月30日にあり、東大和市の協力を得て同市の「戦災変電所」を初めて訪れた。
ピースウォークは平和事業の一つで、秋恒例の戦跡まち歩き。クレーター状の弾痕が壁のあちこちに残ることで知られる旧日立航空機変電所の見学に市民15人が参加した。
参加者たちは西武拝島線玉川上水駅に集合。朝鮮戦争後に開設された米空軍基地、そのゲート前に立っていた石碑が駅前広場に移され、保存されていた。
石碑を見て、東京都道43号(芋窪街道)沿いの歩道を北へ向かう。米軍基地ゲートや日立航空機の工場正門と推定される地点で説明を聞き、右折して都立東大和南公園に到着。
家族や子どもたちが憩う公園で、変電所は異彩を放つ存在に見えた。灰色のコンクリート壁に無数の穴。大きな穴は機関砲による弾痕、小さいものは爆弾の破片がぶつかってできたという。
1階の蓄電池室。丸い小さな穴が外の光を取り込んでいる。厚さ20センチものコンクリート壁を、機銃掃射の弾丸が貫通したという。外壁に小さい傷跡をつけたのはB29爆撃機が落とした500ポンド爆弾のかけら。全長1.5メートル、直径36センチの実物大の爆弾模型が展示されている。
1945年2~4月、米軍機による3度の空襲で、主に練習機のエンジンを製造する工場は壊滅状態になり、111人が犠牲となった。変電所は工場に隣接しながらも致命的な損傷を免れ、戦後建て直された機械工場に電気を送り続けた。
市民の保存運動を受け、市は95年に文化財に指定。一昨年からは約1億3千万円をかけて保存改修工事をした。外壁は劣化を防ぎ、弾痕を保存する特殊な塗装を施したほか、2階に上がれるよう強化ガラス製の新たな階段を設けるなどして昨年10月、一般公開を再開した。
2階は奥の壁や配電盤、階段の手すりなどにも銃撃や爆撃の傷痕が残っていた。ヘリを大きくかじり取られたようなテラスの向こうに、散歩や芝生の上でくつろぐ人々など平和の光景が見えた。
見学後の意見交換会では「防空壕は役に立たなかったのか」といった質問や、「戦争が自分の身に起こったように感じた」などの感想が語られた。男児を連れてきた母親は「戦争はいやだとわかってくれたら」とわが子に目をやった。