旧田無市の戦跡たどる 公民館が講座

田無駅北口の「平和のリング」付近で空襲犠牲者を悼む参加者たち

 西東京市芝久保公民館は12月11日、平和を考える講座で「この町にも戦争があった」と題し、太平洋戦争による戦跡めぐりを行い、20人が参加した。

 

 講師は「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」代表で私立中・高校教諭の牛田守彦さん。現地を歩く前に館内で学習し、牛田さんは米軍の空襲はあくまでもエンジンを組み立てていた中島飛行機武蔵製作所(武蔵野市)が目標だったことや、犠牲者には防空壕に避難した子どもと女性が多かったことなどを話した。

 

 米軍が撮影した爆弾投下の痕跡を残す航空写真などをスライドで見せ、これからの立ち寄り先についてもあらましを説明した。

 

 最初に訪れたのは橋場交差点角にまつられた交通安全地蔵。空襲で頭部が行方不明になったが、戦後、頭部を再建したところ交通事故が減り、今の名が付いた。白い防寒着を着ていた。

 

 やすらぎのこみちを田無の中心部へ向かう。途中、被爆して枯死し、今はなくなった柿の木の場所を遠目に見、観音寺の墓地で「濱野家」の墓所を訪ねた。自宅敷地の防空壕に退避した祖母や妹ら家族6人を失った。

 

 やすらぎのこみちを右折、青梅街道を越えると田無小学校だ。来年創立150年を迎えるが、戦時中は兵舎として使われた。2018年には校庭から焼けただれた訓練用銃器などが大量に出土し、話題となった。

 

 ふれあいのこみちを通り、田無駅北口に出る。商業ビル「アスタ」と駅をつなぐ通路にかかるモニュメント「平和のリング」。この付近にあった建設会社の大型防空壕で31人が生き埋めになって死亡したという。

 

 終着の総持寺では山門の手前で戦災慰霊塔(通称・平和観音)、境内では家族を亡くした親子が寄贈した鐘楼、墓地では墓誌の氏名の上にわざわざ「戦災死」と刻んだ家の墓を見た。4月12日が命日の墓はこのほかにも多く見られ、「田無大空襲」を裏付けているという。

 

 牛田さんは西東京市には空襲のことを知り学ぶ資料がたくさんあると指摘し、今回の野外学習が「戦争の『なぜ』を学ぶきっかけになれば」と話した。