佐藤教授は、仏教は「修行」や「実践」が強調されるが、言語をおろそかにすると仏教の本質を理解できないのではないか、との考え方を持つ。
インド仏教の歴史は、最も古い「原始仏教」に始まる。開祖である釈尊、ゴータマ・ブッダの教えであるが、それは弟子たちが聞いた間接的なもので、本当のところはわからない。釈尊が亡くなり、律(教団の規則)の解釈をめぐって分裂したものを「部派仏教」と呼び、紀元前後からは釈尊を神格化した「大乗仏教」、700年ごろからは儀礼を重んじる「密教」が伝播する。
こうした仏教の歴史は「言語との闘いの歴史」でもあるという。しかし、どの仏教も根本(悟り)は言語化できないとしている。では、なぜブッダは言葉による説法を行い、経典も残っているのか。佐藤教授は「言語は手段に過ぎない」という考え方を仏典を引用して示し、言語を介した教えはブッダ自身の教えであっても捨て去るべきであるとしたところに、他の宗教には見られない仏教の持つ魅力があると述べた。
今回の連続公開講座は「仏教の未来―新しい挑戦に向かって」を総合テーマとし、シンポジウムを挟んで全5回(聴講無料、申し込み不要)。次回は6月2日。「インドの仏教、日本の仏教、そして…」と題し、評論家の宮崎哲弥さんが話す。
【余話】仏教は外と内に問題を抱えていることが、佐藤教授の口から語られた。私のような凡俗は、この日のテーマよりも大きな興味を持ってしまう。
仏教はどうあるべきか。仏教の未来を考えるとき、「外」に対する問題として何に貢献するのか、それはできるのか否か。できるとすればどう貢献できるのか。例えば、もろもろの社会問題、国際紛争、環境、生命倫理、生と死などなどに対して…。
「内」に関する問題とは、仏教の直接的な担い手である僧侶や研究者である。彼らは教団組織の問題にどうあるべきか。葬送儀礼とどうかかわれるのか。研究するとはどういうことなのか。研究を指導したり教えたりする方法とは…。
なんだか仏教を信じられなくなりそうな、いやいやそれほど奥が深いというべきか。