八丈島(4)三原山は不機嫌=5月17日

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滞在最終日。帰りの飛行機は午後2時発羽田行き。バイクは午前9時から正午まで借りることにしてレンタル会社に電話した。

前夜も地図を眺めたのだが、どこという当ては考えつかなかった。店で、3日間で見た所を大ざっぱに話すと三原山を勧められた。

バイクだと林道の路面が不安、ハイキングをするには時間が足りないと今回はあきらめていた所だが、バイクなら山頂近くまで行けるし、3時間あれば余裕で帰ってこられるという。レンタル料金は3時間で3500円。

中央道路を西に向かって一周道路に入り、「むかしの富次朗」付近の分岐点から山を目指す。舗装はされているが道幅は狭く、落ち葉や小枝のたまり具合から利用者の少ないことが想像できる。

案内標識の一つ一つに目を凝らし、慎重にコーナーを回り、Y字の交差点に来た。石を磨いた標識に左は三原山、右は三根・末吉方面への三原林道、と刻まれている。

どちらの道も舗装が延びている。当然、三原山方面へハンドルを向けたが、目の前を霧がよぎるようになり、舗装が切れて小砂利の狭い道に=写真。この先、ダートコースがどのくらい続くのかわからない。今はぬれるほどではないにしても急変するかもしれない。

「ここは勇気ある撤退だ」と分岐点まで戻り、三根に下りた。雲は山頂付近だけだったようだが、朝の天気予報の「晴れ」が恨めしく、下界までがとても長く感じられた。八丈富士にも雲がかかっていた。

さて、三根に戻ったものの、正午まで1時間半以上残っている。とりあえず、西へまっすぐ走り、町役場庁舎を一回りして八重根港へ。港の周りをじっくり見ると、どこか違和感が強い。

人気のない船客待合所の近くの階段を下りると黒い溶岩に囲まれた入り江があるが、海への出入り口は何段にも重なる波消しブロックで閉ざされている。八重根港は戦争末期、米艦隊の標的で上陸拠点と想定されていたという情報がネット上にあったが、そう言われると待合所に近い石積みの壁や壁に開いた穴が日本軍の陣地跡と見えなくもない。

あとで調べたら、立ち入り禁止の岸壁は昭和の終わりごろに造られ、待合所は2012年完成だから、いずれも先の戦争とは無関係。ただ、荒天で底土港が使えない時の代替として年に10回程度しか利用されていないことが物寂しさを醸し出しているのかもしれない。

次に、前日立ち寄らなかった大里の「ふるさと村」に行ってみた。古民家を修理し、母屋や馬小屋、高倉、閑所(トイレ)などが保存されているはずだったが、1月の火災で焼失。わずかに馬小屋の跡らしい玉石垣が残るだけだった。建物がなくなって現れたのか、崖に防空壕のような穴が見えた。

八丈島歴史民俗資料館からふるさと村に至る古道が今もあるという。片や閉館、片や焼失と八丈島の歴史を知る重要な両施設を見学できなかったことはつくづく残念だ。

ふるさと村を最後にバイクを返すつもりだったが、たまたま「宇喜多秀家の住居跡」の看板が目に入った。いったん通り過ぎたが、流罪で有名なこの人の墓も、豪姫と並んだ像も見ていないこともあってUターンした。

私有地らしい敷地の奥に秀家ゆかりのソテツが生え、秀家が築城した岡山城の石垣の石の一つが飾られ、さらにその奥が住居跡とされる。跡地の周囲には木が植えられ碑が置かれているが、50年を過ごしたという住居の規模や外観は想像できず、最後の見どころとしては物足りなかった。(下の写真は焼失した「ふるさと村」、宇喜多秀家の住居跡)
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