午前9時、ホテルを出発し、走りだしてすぐの底土港を見た。前月、東京都の視察船「新東京丸」で東京港を見学する際、竹芝桟橋で見た東京~八丈島航路の大型客船・橘丸が接岸していた。独特の黄色い船体。到着して時間が立っていないことが人の出入りからうかがえた。一時はオートバイと一緒に乗ってこようかと検討した船だ。
しかし、旧八丈支庁舎だった木造の建物は古めかしい外観だけでも文化財の味わいがあり、石をくり抜いた水槽、弥生時代の建築様式を残す高倉(高床式倉庫)などの野外展示物、ビロウやソテツ、タコノキなどが茂る庭の風景も楽しむことができた。
八丈島はヒョウタンの形をしていて、大きく分けると、圧倒的に人口が集中しているくびれ部分を含む八丈富士側を「坂下」、反対側を「坂上」と島の人たちは呼んでいる。知人は坂上地区を西回りで案内してくれるという。
大里集落の「玉石垣」は旅行の初日に立ち寄ったが、車はもっと奥の路地まで入り、今は貴重な玉石を積む職人の家も教えてくれた。昔は流人が玉石を運び、労働の対価はおにぎりだったという。
この玉石の供給地が少し南の横間ヶ浦。初日にバイクで走ったときは、一周道路からこの海岸に入る道を見落とし、その先の大坂トンネルの展望台にも気づかなかった。
知人のおかげで、横間ヶ浦の海岸では赤ん坊の頭ぐらいの石が予想以上に重いことを知り、大坂トンネルの手前では展望だけでなく、旧道横に残る、米国艦隊を迎撃する直射砲の台座跡とされる洞穴をのぞき込むことができた。ここまでが坂下の大賀郷地区だ。
トンネルを抜けると坂上地区となり、樫立(かしたて)、中之郷、末吉と三つの集落がある。戦後しばらくはそれぞれ村だった。すべての集落に温泉施設があり、過疎地振興の柱が温泉を生かした観光だと知人は解説した。
今回は温泉をあきらめて1カ所でも多く見どころを訪ねるつもりだったが、せめて足湯だけでもと、太平洋を見渡す「足湯きらめき」でゆっくりした。
足湯でのんびりしているうちに正午となり、「島ではうまい方」のそば屋に連れていってくれるという。一周道路を少し戻った所にある「千両」。「入れるかな」というほどの人気店のようだが、この時はすいていた。
知人は天もりの大盛りを選んだ。エビとアシタバの天ぷら付きというので、控えめに普通盛りにした。
食後は少し歩き、「むかしの富次朗」という店へ。入るとソフトクリームやコーヒーなどの飲み物、かき氷のメニューを書いた小さなカウンターがあるが、部屋全体は本がいっぱいの図書館のようであり、ピアノや太鼓があって音楽も楽しめるような不思議な造りだ。隣の部屋にはサンダルなどの雑貨も。昔の商店は道路の反対側に移り、今は観光客や地域の子どもたちの休憩所ということだった。島の生活にちょっぴり触れた思い。
腹ごしらえができたところで出発し、黄八丈織物協同組合の黄八丈会館、八丈島地熱館、地熱を利用した果樹栽培の展示ハウスと農産物直売所の「えこ・あぐりまーと」と見学。直売所で私は「あしたばクッキー」を、知人はまだ青い無農薬バナナの房を買った。
登龍峠に至る途中、三原山に上る形で一周道路から「こん沢林道」に入ると、10分ほどでポットホールに着く。ポットホールは、川床の岩盤のくぼみに入り込んだ小石が渦巻きで回転し、大きな穴になったものだ。埼玉県秩父地方にも荒川が作りだした大きなポットホールがあると知って探したが、見つけられなかったので、八丈島ではぜひ見たかった。
町が天然記念物に指定して2年もたっていないせいか、看板は新しく、説明の内容や地図も親切。数百メートルも連なっているのは珍しいと紹介していたが、川沿いの山道を5分ほど登ると数十センチの穴が小さくなり、時間も4時を過ぎたため、二人で「探査はここまで」とし、いいアングルを探しながら写真を撮り林道に戻った。
登龍峠で知人は有名な郷土料理の店に予約の電話をし、この夜、島で初めて豪華な食事に舌鼓を打ったのだった。(下の写真は閉館中の歴史民俗資料館、玉石が集まる横間ヶ浦海岸、大坂トンネルの大賀郷側に残る砲台跡の壕、中之郷の足湯きらめき)