
練馬区の区立石神井公園ふるさと文化館で開催中の特別展「水を守る―千川家と千川上水の330年―」を10月22日に見てきた。
千川上水は私の住む西東京市とお隣・武蔵野市の境界付近にある「境橋」で玉川上水から分かれて流れ、武蔵野市内で見かけたり、池袋駅近くに千川駅があったりして親近感を覚えている。
その上水が330年の歴史をもつという。始まりはどうだったのか。
玉川上水から分水する工事が始まったのは江戸幕府の5代将軍綱吉の時代。綱吉が立ち寄る小石川御殿のほか湯島聖堂、寛永寺、浅草寺、町人地にも水を送った。
工事を請け負ったのが千川四家と呼ばれる町人たち(のち5人に)。1人100両前後の資金も出した。この功績で幕府から「千川」の名字が与えられたという。
千川四家は大金を出しっぱなしだったわけではなく、管理料として「水銀」を集め、維持費や修繕費を差し引いて分け合っていたという、水が田に引かれると、村から「水料米」を差し出させた。
千川上水は近代に入り、氾濫(はんらん)や水難事故が起き、宅地化も進んで暗渠(あんきょ)になっていった。1971(昭和47)年、大蔵省印刷局抄紙(しょうし)部への給水を停止して水道事業が終わった。
平成に入り暗渠の一部が開渠になり、玉川上水と同じく下水処理水を利用した清流が復活している。
この間には武蔵野の新田開発のために江戸市中への上水が停止されたり、水料米の支払いをめぐる争いがあったりした。製粉などのための水車の設置、幕末の大砲製造所建設のための用水利用、明治維新後の水料米廃止など制度変更とさまざまな出来事があった。
これらの歴史を、練馬区の文化財「千川家文書」などの古文書や絵図、古写真、地図でたどる。会場は千川上水の誕生、千川四家と幕府の土木請負人、用水とともに生きる、再び幕府の水へ、明治期の千川家、その後の千川用水―という流れで組み立てられている。
1800(寛政12)年に板橋宿の用水から1メートルを超すオオサンショウウオが見つかったという図入り資料は、文字資料の展示が多いだけにホッとした。
展示は11月3日まで。観覧料は一般300円、65~74歳150円、75歳以上は区外の人でも無料。





