御門訴事件 田無地域をたどる

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明治初め、武蔵野の農民たちが政府の新たな米供出政策に抗議行動を起こした「御門訴(ごもんそ)事件」の跡を巡るフィールドワークが1026日、西東京市内であった。
 
御門訴事件を伝えてゆく会(孤島法夫代表)が主催し、約50人が参加した。伝えてゆく会は2009年に寺の住職や元教員など4人で発足。翌年から毎年、事件を紹介するパネル展を開くとともに旧跡をたどるフィールドワークを行っており、これまで延べ約1千人が参加している。
 
御門訴事件は1869(明治2)年から翌年にかけて起きた。今の武蔵野市から西東京市小金井市東久留米市国分寺市の「武蔵野新田12カ村」が参加。当時の品川県に備蓄米の供出を課せられた農民が免除を求める嘆願書を出したのが発端となり、県による一方的な村役人の監禁や農民の県庁(日本橋浜町)へのデモに発展。県庁の門前で嘆願する「門訴」にもかかわらず多くの人が逮捕されたうえ、拷問などで6人が死亡した。
 
5回目の今年は西東京市のうち田無地域(旧田無市)を巡った。事件当時の田無村は集団から脱退していたが、門訴のための農民が集合し、歩き始めた場所の「八反歩(はったんぼ)」があるなど事件との関係は深い。
 
この日、参加者たちは田無公民館で、伝える会を立ち上げた一人の飯畑幸男さんから事件の概要を聞き、八反歩へ。八反歩はかつて村人たちが草を刈る入会地で幕末には農兵隊の練兵場だったという。現在は南町6丁目の石神井川北側に沿って建ち並ぶフランスベッドの社屋と早稲田大の学生寮の辺りだ。その対岸となる石神井川南側の向台運動場に集まり=写真=、当時の様子を想像した。
 
八反歩の後は、1度目の門訴に向かう集団に中止するよう呼びかけた名主、下田半兵衛の役宅と下田家が飢饉(ききん)に備えて自費で建てた稗倉(ひえぐら)(いずれも田無町2丁目)、下田家の正門を移設保存する総持寺(田無町3丁目)に立ち寄った。最後の柳沢庚申(こうしん)塔では、県の役人の口約束を信じて1度目の門訴の途中で引き返す農民たちが酒を振る舞われ懐柔された場所がこの近くではないか、との説明があった。
 
今回のフィールドワークには西東京市文化財保護審議会委員で郷土史家の近辻喜一さんが同行し、立ち寄り先で文化財としての意味などを解説して好評だった。