
「練馬の富士山信仰」をテーマとするふるさと文化講座が8月12日、東京都練馬区立石神井公園ふるさと文化館であった。定員いっぱいの約90人が参加し、同館学芸員の小宮佐知子さんの話に聞き入った=写真は江古田の富士塚の登山口。
練馬区域では江戸時代から戦後まで富士講による富士登拝が盛んに行われてきた。小宮さんは、ススキの野原の向こうに富士山がそびえる、江戸時代の「武蔵野図屏風(びょうぶ)」などの資料写真をたくさん使いながら、富士山が武蔵野から身近に見え、富士塚など富士講の史跡が残り、富士街道(ふじ大山道)が北西から南西へ通っていることを説明。
江戸時代の練馬区域の富士講は、白木綿のひとえ物などを着て甲州道中を富士吉田まで歩き、登拝する人に宿を提供する神職の御師(おし)の家に泊まるなどして12~13日間かけて出かけたことがわかっているという。
主な講は七つあり、江古田の富士塚(国指定文化財)を築造した「丸祓(まるはらい)講)」、現杉並区の井草八幡宮周辺の上井草村を中心に保谷、田無へと広がった「丸を講」、江戸中心部から武蔵野へ広がり田無周辺に無数の枝講を立てた「丸嘉(まるか)講」、埼玉県東部から東京都は練馬区、板橋区、東久留米市、清瀬市と分布範囲が広い「丸吉(まるきち)講」などについて、資料に基づき活動の足跡が紹介された。
富士登拝の資料がよく残る丸吉講高松講社の場合、戦後は観光的要素が強くなり、1962(昭和37)年8月は山中湖で遊覧船に乗ったなどの記述から「信仰よりは観光で講を存続している」(小宮さん)ことが読み取れ、81年で登拝が終わった。