東海道は「五十七次」 歴史講座盛況




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 「東海道53次ではなく57次」と説く歴史講座「二つの東海道」(大人の休日倶楽部趣味の会主催)が1月26日夜、東京都千代田区JR神田万世橋ビルであった。


 「『広重が描いた京への53次』と「『幕府が管理した大坂への57次』」を副題に、志田威(たけし)さんが話した=写真。


 志田さんはJR東海専務などを経て、現在は旧蒲原宿(静岡市清水区)の実家の邸宅を公開したり東海道町民生活歴史館として運営したりするほか、東海道の歴史・文化をめぐり講演、執筆などの活動を続けている。


 定員40人が満席となる歴史好きの人が集まったが、「東海道57次と知っていた人」との志田さんの問いかけに挙手したのは半数に満たなかった。


 志田さんは、東海道徳川家康関ヶ原の戦いに勝利してわずか3カ月で江戸~京に約40の駅(宿、宿駅)を設け、宿駅伝馬制を導入したこと、2代秀忠は東海道を分岐させ大坂までの東海道を新設、3代家光が伊勢(三重県)に庄野宿を設けたことで、江戸~京は53継立(つぎたて)、江戸~大坂は57継立が完成したと解説。


 東海道に一定数の人足と馬を待機させる宿駅伝馬制はもともと幕府の役人が使うためにだけあり、大阪への街道分岐や大阪城代の配置は西国の外様大名を監視するためだったという。


 志田さんは、「家康は、『広重にしてやられた』と泣いているのではないか」と受講者を笑わせた後、「教科書は今も53次と57次の二通りの表記がある。小さな問題との考え方もあるが、幕府の資料が残っており、歴史は正しく伝えたい」と強調した。