戦争遺跡 なぜ多摩・武蔵野に集中

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戦時中、陸軍戦闘機を隠した掩体壕(えんたいごう)=6月、調布市

 「多摩・武蔵野の戦争遺跡を探る」をテーマに、山田朗(あきら)明治大学文学部教授(日本近現代史)が話す教養講座が8月22日に立川市内であった。

 

 山田氏は、JR中央線京王線沿線に戦争遺跡が多いのは(1)戦時中、陸軍技術研究所10カ所のうち半数が小金井・小平に移転(2)中島飛行機武蔵製作所と関連企業が開設(3)本土防空戦のための調布飛行場と防空施設が存在―と大きく3つの理由を挙げた。

 

 そのうえで、広大な敷地を持ち、「秘密戦」の要員を専門に育成した陸軍中野学校(中野区)を始め、中島飛行機関係遺跡(三鷹市など)、日立航空機変電所(東大和市)、東部九二部隊(電波兵器練習部隊、国立市)のあった一橋大学東本館、戦闘機を隠した掩体壕(えんたいごう)が残る陸軍調布飛行場跡(調布市)、被災した中島飛行機武蔵製作所の受け入れ施設となった浅川地下壕(ごう)(地下工場跡、八王子市)について説明。

 

 中野学校は痕跡がほとんどなく、東京警察病院内に1980年建立された「陸軍中野学校址(し)」碑は小さく、わかりにくい場所にあるという。

 

 米国本土爆撃用の超大型爆撃機富嶽(ふがく)」の設計に取り組んだ中島飛行機三鷹研究所の本館が国際基督教大学本館として現存しており、建物では最大級。建て替えが検討されたが、保存を求める声が上がり、修繕によって継続使用する方針が先ごろ示された。

 

山田氏は「着手が明らかに手遅れだったとか、行き詰まった段階でなぜつくったかという戦争遺跡が多い」と分析する。

 

 そして「戦争を語り継ぐことが難しくなってきたし、写真と現物とではインパクトが違う」として、市民運動自治体の協力で戦争遺跡を保存していくことの重要性を訴えた。