拷問・刑罰の道具に関心 明治大学博物館

イメージ 3 西東京市郷土文化会の5月例会は7日、東京・御茶の水の明治大学博物館を訪ねた=写真はギロチンなど国内唯一の展示資料。


 博物館は、JR御茶ノ水御茶ノ水橋口から徒歩5分の明大アカデミーコモン館にあり、常設展示室(観覧は無料)があるのは地下2階。「商品」「刑事」「考古」の3部門に分かれている。


 商品部門は筆や和紙、銅器などの金工品、漆器、染織品、陶磁器といった伝統的工芸品について、原材料や半製品から完成品までの技法、工程がわかるよう展示されている。


 考古部門は、明大の研究者が群馬県岩宿遺跡の発掘調査で日本に旧石器時代があったことを証明したり、戦後日本の考古学の発展を促す遺跡調査を多数手がけたりしてきて、重要文化財になっている出土品が見られる。古墳時代までの資料が並ぶ。


 刑事部門は、「御成敗式目」や「武家諸法度」など古代から近世までの著名な法令、高札や十手など江戸時代の捕者(とりもの)道具と拷問や刑罰の道具が並んでいる。ギロチンの復元品など国内で唯一の展示資料もある。


参加した32人は三つのグループに分かれ、それぞれ順路を変えてガイドボランティアから説明を聞いた。「テレビドラマの影響で人気は一番」とガイド氏が言う刑事部門では、人相書きは実際には顔が描かれていなかったことや、御用ちょうちんの「御用」の文字は前面でなく横に書かれていたと、時代劇の考証に疑問を投げかける話があった。


「人相書きは写し続けると原形が変わる」「御用の文字が前にあると明るさが減る」との理由によると言う。また、ギロチンは処刑される人に苦痛を与えないために考えられた「人道的な処刑具」であることも語られた。


会員たちは「武家諸法度はどのようにして各大名とその家来たちに伝えらられたのか」「高札は町民の多くが読めたのか」などと熱心に質問していた。
(下の写真は筆などの伝統的工芸品が並ぶ商品部門、大型古墳を展示する考古部門)
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東京・中野区 沼袋~野方 史跡巡る


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 西東京市ウオーキング協会の5月のミニウオーキングが3日、東京都中野区であった。38人が参加し、西武新宿線沼袋駅から隣の野方駅までの史跡を巡った=写真は清谷寺の百観音霊場。

 沼袋駅北口に集合し、午前950分ごろ出発。最初の目的地、禅定院(ぜんじょういん)へは徒歩6、7分。

 山門の大イチョウが印象的だ。見上げると、若葉がつくる巨大な緑のぼんぼりが天を覆う。一人が胸元の幹に手を回した。「大人4人が手をつないでも足りないかな」という太さ。ボタン庭園を回ると、晩生の黄色い花のものが、今が見ごろと咲き誇っていた。

 庭の門から出て、明治寺(めいじでら)へは3分ほど。本堂を参拝して境内の「百観音霊場」に入る。霊場内での写真撮影は禁止。

 西国・坂東・秩父を合わせた百観音は、明治天皇のご逝去をきっかけに建立が始まった。この霊場を巡拝すると本場を巡礼したのと同じ縁が結べるとされ、現在は170体余りの観音像がある。

 沼袋駅西側の踏切を渡り、妙正寺川に架かる橋を渡ると、刑務所跡に造られた区立の「平和の森公園」だ。小休止を取った後、住宅地の道を何度も曲がって清谷寺(せいこくじ)に着いた。本堂の外の隅に「十三仏板碑(いたび)」が立つ。

 板碑は死者を追善供養するための平たい石の塔婆(とうば)。梵字(ぼんじ)で十三仏を刻んだ室町時代初期のもので、区指定の有形文化財。住職は「先代の時、雨ざらしになっていたこともあり、売ってくれと持ちかけられたが、都に調査してもらった結果、売らないことにした」と話した。

 最後の目的地「二十三夜碑」は寺から近い三差路にあった。。「二十三夜」は陰暦で23日の夜、念仏を唱えたり飲食を共にしたりして月の出を待ち、無病息災を祈る行事。この辺りで疫病が流行し、祈禱(きとう)師から碑を再建するよう告げられた人たちが昭和初めに建てたらしいことが、説明板に書かれていた

 碑の隣にある祠(ほこら)には庚申(こうしん)塔と地蔵尊が納まる。それぞれに「享保」と「延享」の建立年が彫られているというが、宅地化や道路整備で一カ所に集められたのだろうか。

 この日、都心は最高気温が25度と大型連休中で一番の暑さとなったが、体に大きなダメージを受けた人はなく、3キロ余りを歩いて午前1140分ごろ、野方駅南口で解散した。
(下の写真は、黄色いボタンが見ごろの禅定院、十三仏板碑のある清谷寺、二十三夜碑などが集まる三差路)
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常陸路で花三昧 「青のじゅうたん」ネモフィラも

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令和初日の5月1日、「5種の花の競演」とうたう旅行会社の日帰りバスツアーに参加した。

JR中央線三鷹駅前を出発し、笠間稲荷神社笠間市)の「八重の藤」、水偕楽園水戸市)のツツジ国営ひたち海浜公園ひたちなか市)のネモフィラと菜の花=写真=、チューリップを巡るコース。花好きの知人が声をかけてくれた。旅行代金は6980円。

三鷹駅前を午前8時出発、首都高新宿線高井戸インターチェンジIC)から高速道を乗り継ぎ、北関東道・友部ICで下りて笠間稲荷神社の駐車場に1010分ごろ着いた。ここの出発は1050分。

神社の楼門をくぐると拝殿右側に二つの藤棚があり、2株とも樹齢約400年で県の天然記念物。なのに、奥にある八重の藤が脚光を浴びる。花が濃い紫色でブドウの房のように花弁が集まって咲き、実を付けない珍しい種類という。

添乗員は出発時に「花は全て見ごろです」と話したが、まだ三分咲きといったところだ。説明板には「毎年5月10日ごろに花を咲かせる」と書いてあった。それでも「ブドウの房」らしさは見ることができた。

バスは常磐道・水戸ICで下り、偕楽園の駐車場到着は1135分。次の出発は「覚えやすいように」と1234分になった。

偕楽園には東門から入った。好文亭の手前に目的のツツジはあった。丸く刈り込まれたキリシマツツジがいくつもあり、目に痛いほどの真っ赤な花が覆っていた。ツツジ山の華美とは別の、植木職人の熟練の技と美意識が感じられる。赤い小山を背に、次々とカップルがパートナーの写真を撮っていた。

バスは東水戸道路ひたちなかICで下り、ひたち海浜公園西駐車場の団体バス乗降所に午後120分ごろ着いた。帰りはバスの駐車場所が違うことを、添乗員がくどいほど注意する。出発時刻は午後3時30分。

西口・翼のゲートから入場し、添乗員が勧めた通りに左回りで進む。とっくに花を落としたスイセンガーデンを過ぎると、黄色い花が盛りの菜の花畑と、その向こうにネモフィラの淡い青色の花を敷き詰めた「みはらしの丘」が広がっていた。

新聞報道によると、ネモフィラは4月24日に満開となり、テレビでもその美しさや観光客のにぎわいを伝えていた。見ごろは少しも衰えることなく、この日も大勢の観光客が丘の小道を埋め尽くし、絶景ポイントを選んでは写真を撮っていた。

ネモフィラ3.5ヘクタールの面積に約450万本が植えられ、丘の頂上は標高58メートルでひたちなか市の最高地点という。

丘を南に下り、西口に戻る途中の「たまごの森フラワーガーデン」には開花時期や花弁の色・形などが異なる約250品種25万本のチューリップが植えられ、ほとんどの区画が見ごろを保っていた。スマートフォンで接写する若い人が目立つ。

「時々雨」の予報は、見学中は当たらず、大きな交通渋滞に巻き込まれることもなく、春の花を堪能。旅行会社の予定通り午後7時ごろ、雨の三鷹駅前に着いた。

(下の写真は、ひたち海浜公園ネモフィラの丘、同公園のチューリップ花壇、笠間稲荷神社の八重の藤、水戸偕楽園キリシマツツジ
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郡山・三春 桜三昧ツーリング■滝桜 ちょうど満開

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東京都心の花見から一呼吸おいて4月16日、福島県郡山市と三春町へ1泊ツーリングに出た。本命は三春滝桜=写真は4月17日朝=で、近くて前泊できるビジネスホテルがある郡山をセットにしたのだが、2日にまたがり郡山市の桜の名所を8カ所も巡ることになり、望外の花見三昧となった。



旅行計画の中核は、何をおいても三春滝桜の満開日の予測。過去6年の開花状況がわかるサイトを見つけ、観測史上開花が最も早かった昨年を除く5年分を検討。単純平均だと満開は4月15日だが、「散り始め」を覚悟して17日に決定。1月下旬に郡山のホテルに宿泊を予約した。朝食付き4900円。


一足飛びに、当日―。午前6時30分からの朝食バイキングをしっかりと食べ、8時前に出発。郡山駅東口側のホテルを選んだので、三春方面への道にすぐ出られ、「滝桜」方面を矢印で示す看板も随所に設置されていて、迷うことなく約30分で滝桜大駐車場に着いた。バイクの駐車場には所沢ナンバーの大型バイクが先着していて、親近感から中年ライダーにあいさつした。自宅から高速道を使わずに走ってきたという。


観光バスはまだ数えるほどしかなく、観桜券売り場も10人ほどの列。地下道を抜け、緩い坂を上ると左手に満開の見事なベニシダレザクラが見えた。遠目にも美しいが、そばに寄り、見る位置を移しては立ち止まる。ためつすがめつにはいられない魅力。見物客は一重で隙間もあるから、自由に移動でき、好みの場所で立ち止まっても他人の迷惑にならない。朝早く来たかいがあった。


滝桜は推定年齢が千年を超え、「日本三代桜」に数えられる国の天然記念物。高さ135メートル、東西25メートルに枝を張り、紅色の無数の花は流れ落ちる滝に例えられる。


滝桜の背後の丘に登り、午前9時ごろ戻る途中、旅行会社のツアー客が次々と入ってきた。入るときは気づかなかった「開花状況」のお知らせ板がトンネル前にあり、矢印が「満開」を指していた。観桜券売り場の人に聞くと「満開になったのは今日です」。すごく得をした気分になった。


三春町でこの日最後に訪れた福聚寺(ふくじゅじ)桜も満開。白っぽいソメイヨシノの向こうに、推定樹齢450年のベニシダレザクラがモフモフ感たっぷりに咲き誇る。背後の竹林の緑が紅色を引き立てる。遠目では我慢できず、近寄って見上げた。


境内に開かれている売店でコーヒーを飲んでいると、住職(小説家でもある玄侑宗久氏)の奥さんが近くに腰を下ろし、「今年の桜は若々しい」と言う。土壌改良の効果が表れたそうだ。


町内ではこのほか、お城坂枝垂桜、城山公園(三春城跡)の桜、田村大元神社の桜、常楽院桜、天澤寺(てんたくじ)桜、超歴史民俗資料館前の桜谷枝垂桜を見て回った。町内には約1万本の桜の木があり、26カ所の桜が「三春さくらの会」から名木に指定されている。訪れたのはこのうちほんの4カ所だった。
(下の写真はお城坂枝垂桜、福聚寺桜=後方)
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郡山・三春 桜三昧ツーリング■郡山 川沿いに千本桜

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郡山市に桜の名所が数多くあることは今まで知らなかった。市観光協会の観光情報サイトは、1カ月以上にわたり桜が楽しめるから、「見ごろのものを選んで桜めぐりの旅を」と誘う。道路地図と照らし合わせながら、なるべく一筆書きで宿泊地・郡山駅東口のホテルに着けるようにコースを設定した=写真は藤田川ふれあい桜。

416日午前7時15分、西東京市の自宅を出発。大泉から東京外環道、川口から東北道に乗り、須賀川で下りてすぐ給油。時速80キロ台で経済走行し、河内サービスエリアで小休止したので11時に近かった。

給油所を出てほどなく左折し県道67号(中野須賀川線)をしばらく走る。風は冷たいが空は快晴。田園風景に心が和む。ゴルフ場の手前を右折して県道29号(長沼喜久田線)に入った。

田畑の向こうにピンクの帯が見えた。最初の目的地、笹原川の千本桜。欄干のそばにバイクを止め、右岸を歩いた。奥に軽ワゴン1台と見物に来たらしい男女の姿が見えた。ソメイヨシノは3分から5分咲きというところだった。

笹原川千本桜は、昭和30年代に河川改修した堤に地元住民が植樹し、約2キロに及ぶという。県道に架かる下守屋橋から次の橋までを往復して浄土松公園へ向かうが、標識を見落として通過してしまい、逢瀬公園を先に見て浄土松公園へ戻った。

広大な逢瀬公園の中にある「さくらの広場」は時間がなくて見られなかったが、浄土松公園の多目的広場を取り囲むソメイヨシノは鮮やかに咲き誇っていた。

「長橋の種蒔(ま)きザクラ」は探すのに少し手間取った。県道左側の田畑の向こうにある農家の建物の上に見える一本桜で、市の天然記念物だ。樹齢は350~400年と推定され、この地区では珍しいエドヒガンの大木。農事始めの指標として地域の人たちに愛されていると説明板にあった。

この農家の奥さんらしい人が、前庭のビニールハウスの中で水稲の苗に水をやっていたので近づき、桜を近くで見せてもらえないかとお願いすると、「手入れをしていないし、遠くから見てもらう方が…」と言いながらも、住居と倉庫の間を通って行くよう教えてくれた。

建物の裏手は一段高い丘になっており、古木は17メートルの高さまで伸び、日を浴びる枝に満開の花をまとっていた。お礼を述べて帰りにあらためて眺めると、近くで見た時よりもピンクが濃く感じられた。

2カ所目の千本桜「藤田川ふれあい桜」を目指す。JR磐越西線喜久田駅のそばにあるので、駅前広場の隅っこに無断でバイクを置かせてもらう。駅前通りの大橋から川沿いを上流側へ歩くと、老若幾組かの見物客がいた。河原に下り、よいアングルを探す姿も。

ソメイヨシノが満開だった。桜は昭和34年の皇太子(現天皇)ご成婚を記念して植樹したのが始まりとされ、その後、地元青年団などが増やしてきたという。両岸の並木の延長は約2.7キロ。大橋に戻って下流側にも足を向けた。大橋から1本下の堂田橋では多くの人が写真を撮っていた。

午後3時半になり、机上の計画は破綻した。このあと開成山公園、さいはら桜、日大の桜を見る予定だったが、チェックインを4時に予定していた郡山駅東口のホテルに直行する。

ホテルのフロントで郡山駅前から開成山公園に行くバスの便や乗り場(駅西口)を聞き、急きょバスで往復することにした。福島交通のバスはスイカパスモが使えない。市役所前で降りると5時40分で、薄暗くなっていた。「日本最古級のソメイヨシノ」だけは見ておきたいと急ぐが、足は重く、結構遠い。

その桜は、平成28年の調査で、開拓者団体が明治⒒(1878)年から約3900本を植えたものである可能性が極めて高いとわかったという。説明板の後ろにある古木だけなのか、同じ列の何本かは不明だが、太い幹のゴツゴツした感じは確かにただ者ではない。

目標を達成すると、不思議と体が軽くなり、園内に1300本あるという見事な桜の景観をはじめ、下校する女子高生グループのさざめき、観光客のにぎわいをはっきり意識できる。勢いづいて開成山大神宮の境内も歩き、刺激的な食べ物のにおいを発散する露店の間を通り抜け、市役所前のバス停からバスに乗って帰る。

翌日は三春滝桜を堪能した後、三春町の南に隣接する郡山市中田町へ走り、紅枝垂地蔵ザクラと上石の不動ザクラを見た。どちらも市の天然記念物。順番は三春滝桜の切符売り場にいた人が丁寧に教えてくれ、その通り道端に案内板が置かれていた。分岐点で迷うことはない。

地蔵ザクラは根元に地蔵堂があり、高さ16メートルで推定樹齢は370~380年。樹勢は極めて旺盛というが、最上部が開花しているように見える程度の「咲き始め」だったのは残念。桜の木のそばから階段を上って「ハナモモ回廊」を見にいったが、ハナモモはまだ堅いつぼみ状態だった。

不動ザクラも樹高は16メートルで推定樹齢は350年のシダレザクラ。桜のそばに不動明王をまつるお堂があり、滝桜の子孫との説があるそうな。開花はこちらの方が進んでおり、五分咲きというところだろうか。路上駐車する車の列が時間とともに伸びてきた。ここからは三春町の中心部へ向かう。
(下の写真は長橋の種蒔ザクラ、上石の不動ザクラ)
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郡山・三春 桜三昧ツーリング■旅のおまけもいっぱい

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バイクの走行距離は1日目が290キロ、2日目が310キロ。高速道が圧倒的に多い。

一般道を走り、桜の風景を存分に楽しませてもらったが、桜以外に記憶に残る場所や出来事も書き留めておきたい。

名所で言えば、浄土松公園の「きのこ岩」=写真。風化による浸食の度合いが地層ごとに違うため頂上付近の地層がキノコ状になった。東日本大震災で一部が崩れたが、それとわかる奇岩は残る。

一帯は「浄土松山」として県の名勝天然記念物に指定されている。知り合いを案内してきた人は「昔は防空壕もあった」と話していた。広場から上る細い道は結構きつい。頂上からの下り坂は滑らないよう注意が必要だ。

逢瀬公園では斜面にカタクリの花が点在し、水芭蕉園のミズバショウはなんとか見ごろを保っていた。

昼時だったので、「茶屋」に並んでいると、客は次々と「キャベツ餅」(300円)を注文する。キャベツの特産地ではないようだが、郷土料理だという。ゆでたキャベツを油でいため、餅にまぶしてしょうゆで味付けした素朴な料理。数年前に民放テレビで全国放送され、浜通りから訪れたという中年男性は「一度は食べてみたかった」。

私はカレーうどんを注文し、「郡山B級グルメ」のキャベツ餅を選ばなかったことを後で悔やんだ。この反省もあって、翌日の三春町の昼は「竹炭うどん」(350円)を選んだが、特に論評すべきことがないのは残念だ。
(下の写真は郡山市・逢瀬公園のミズバショウ、浄土松公園の多目的広場)
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講義を聴き、「東寺展」を見た

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 武蔵野大学社会連携センターの美術鑑賞講座が4月11日、特別展「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅(まんだら)」(6月2日まで)が開催中の東京・上野の東京国立博物館であった。二つの講義を聴いた後、展覧会を自由に見るもので、約100人が参加した=写真は立体曼荼羅のうちの国宝・帝釈天騎象像。

 京都・東寺は平安京遷都の際に建立され、中国から密教を学んで帰った弘法大師空海が説く真言密教の根本道場として栄えた。

 「東寺展」は空海が持ち帰った法具や自筆の書などの名宝をはじめ、空海真言密教の教えを仏像で表現した21体の立体曼荼羅のうち国宝・重要文化財の計15体が出品されている。

 講義は日本女子大学名誉教授の永村眞氏が「空海と東寺―真言宗の展開」、大正大学名誉教授の副島弘道氏が「東寺講堂諸像と平安時代前期の仏像」と題して話した。

 永村氏は、空海がもたらした真言密教から真言宗が生まれ、真言宗が興隆する拠点となった東寺は平安時代後期には荒廃し、鎌倉時代に後宇多法王によって再興されたことを、空海ゆかりの資料や東寺の歴史などを書きしるした東宝記(とうぼうき)を引用して具体的に解説。

 副島氏は、天皇から与えられた東寺で空海はすでにあった金堂の後ろに講堂を建て、仏像群を置いたことについて「自分の新しい宗教の魅力を仏像群というビジュアルな世界によって伝え、見る人をとりこにしようとした」とする一方で、五仏、五菩薩、五大明王のほかに奈良時代からある梵天帝釈天を両側に、さらに四隅に四天王を配置し、「伝統的仏教にも気配りした」と指摘した。

 そのうえで、1体でいくつもの顔や手足を持つ怪奇な姿や迫力のある造形の仏像について「調和的な古典彫刻への反抗と革新」「荒々しい感覚が漂っていた時代に人々が求めた姿」と語り、仏像の見方に大きなヒントを投げかけた。

 会期の序盤とあってか、展覧会場は幾重もの人垣ができたり立ち止まらずに進むよう促されたりするほどの混雑はなく、会場で唯一、写真撮影ができる国宝・帝釈天騎象像の前も順番待ちになることはなかった。

 持国天の怒りの表情を見ていると、若い時には「激情を持っていた」ことを思い出すと副島氏は語っていた。70代の私も、まだ既成のものへの抵抗心に火が付くことはあるが、目の前の異形の仏像とは同期できない自分を感じた。現代という時代の空気を吸って生きる若い人たちの目に、この仏像たちはどう映るのだろう。
(下の写真は「東寺展」を開催中の東京国立博物館平成館)
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