早稲田大東伏見キャンパスの体育館や学生寮の前では、ここから旧石器・縄文時代の生活の跡と中世の謎の墓が見つかっていること、氷川神社では鳥居は明治政府の一村一社政策で統合された尉殿(じょうどの)神社から旧村の住民たちがとり返したものであることなど、行く先々で興味深い解説があった。
石神井川に架かる下野谷橋付近から階段を上り、市の下野谷遺跡公園へ。下野谷遺跡は、縄文時代中期の大規模な定住集落が複数あり、約1千年も続いた。都心近郊ではまれな保存状態の良さも評価され、公園を含む西集落は今年3月、国史跡に指定された。
亀田さんは遺跡の特徴などを詳しく説明した後、縄文土器などの出土品を見られる施設(郷土資料室)が遠く離れた所にあることを問われ、「市民と一緒に施設のあり方を考えていきたい」と話した。
縄文人が布を作る原料とした植物のカラムシが公園の一角に植えられており、茎を折って皮の繊維を確かめた。
神社に隣接する都立東伏見公園で昼食をとった後、石神井川の清掃活動などと取り組む市民団体Mec(メック)西東京代表の末光正忠さんに案内人が交代。東京都が整備を終えた東伏見橋から下流の遊歩道を歩いたり、川辺に下りたりして工法などの説明を聞いた=写真下左。ごみを詰めたポリ袋がいくつも川の中に捨てられており、末光さんは「月1回の清掃で90リットル袋2~3個になりますよ」。
今は集合住宅に囲まれる「しじゅうから第2公園」は戦時中ジャガイモ畑だった。長崎で使われた原子爆弾の模擬爆弾が1945年7月、B29から投下され、3人が死亡した。史実を伝える掲示物はなく、子どもたちがブランコの周りで遊んでいた。
解散場所の柳沢(やぎさわ)公民館には、1990年に旧保谷市役所付近の河川改修工事で見つかった爆弾の残骸が展示されていた=写真下右。