武蔵野の大規模な開発は、享保の改革の一つとして1722(享保7)年に新田開発令が出たのが始まり。2年後、代官名で下保谷村の開発地に暫定的な年貢(役米)を課した文書が残っており、「1反当たり1升5合(10アール当たり約2.7リットル)と安いものだった」という。
下保谷新田は市内北西部のひばりが丘北4丁目からひばりが丘1~4丁目までの一帯。元は尾張徳川家のタカ狩りの場所(御鷹場)で、農民は本村から耕しに出向いていた。享保年間の開発区割り図やその数年後の地域の絵図なども示された。
しかし、開発地は通うのが大変なうえ年貢も重荷となり、土地は一部の富裕層の所有に移っていく。明治維新の時には広い山林を「ハラ(原)」と呼び、地主は共同で番人を置いた。このハラ番がウサギの肉のみそ漬けやマツタケを持ってきたと、祖父から聞いたという。