下保谷 新田開発から大団地建設まで 高橋孝さん語る

イメージ 1
 西東京市谷戸公民館主催の「私たちの地域と歴史を学ぶ講座」の2回目が1115日、同館で開かれた。
 
「下保谷の歴史と文化を記録する会」の高橋孝さん=写真=が、新田開発を中心に大規模住宅団地のモデルとなった「ひばりが丘団地」の誕生までの移り変わりを話した。

 高橋さんの家系も西東京市保谷で約400年続く。講座には約30人が参加した。

 武蔵野の大規模な開発は、享保の改革の一つとして1722(享保7)年に新田開発令が出たのが始まり。2年後、代官名で下保谷村の開発地に暫定的な年貢(役米)を課した文書が残っており、「1反当たり1升5合(10アール当たり約2.7リットル)と安いものだった」という。

 下保谷新田は市内北西部のひばりが丘北4丁目からひばりが丘1~4丁目までの一帯。元は尾張徳川家のタカ狩りの場所(御鷹場)で、農民は本村から耕しに出向いていた。享保年間の開発区割り図やその数年後の地域の絵図なども示された。

 しかし、開発地は通うのが大変なうえ年貢も重荷となり、土地は一部の富裕層の所有に移っていく。明治維新の時には広い山林を「ハラ(原)」と呼び、地主は共同で番人を置いた。このハラ番がウサギの肉のみそ漬けやマツタケを持ってきたと、祖父から聞いたという。

 高橋さんの話はその後、武蔵野軽便鉄道(現在の西武池袋線)の株式申し込みに下保谷の地主たちの強い関心が見えること、昭和に入ると自由学園の開校、中島飛行機の工場進出、戦後は東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大)の校舎移転、首都圏初の大規模住宅団地・ひばりが丘団地の建設と、自分の体験を交えながら近現代の「ひばりが丘団地かいわい」を紹介した。