埴輪と古墳とよろいを着けた人骨と 群馬の遺跡を学ぶ

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 西東京市郷土文化会の3月例会は5日、「埴輪(はにわ)王国」と呼ばれる群馬県で行われた=写真手前は八幡塚古墳の埴輪配列区。

 訪れたのは高崎市にある古墳時代専門のかみつけの里博物館と、その一帯にある保渡田(ほとだ)古墳群のうちの八幡塚(はちまんづか)古墳、渋川市にある県埋蔵文化財調査センターの発掘情報館。

 20人が参加し、西東京市を出発したバスは2時間ほどでかみつけの里博物館に着いた。館の学芸員から、5~6世紀に2度大噴火した榛名山と土石流などの災害に襲われた山麓一帯を床に描いた地図の説明があり、常設展示室へ。

 展示室は山麓の古墳社会や王の館、小区画の水田などを縮小した復元模型が整い、日本最古の水道橋や弓などの木製品、食器などの土器とともに1500年前の世界を再現する。埴輪は琴を弾く男子や盾を構える人、飾り馬、家など人・動物・ものと様々で、ほとんどが実物という。

 30分余りで一回りし、外に出る。保土田古墳群は国の史跡で、墳丘の全長100メートル前後の前方後円墳3基の総称。30年間で造られ、八幡塚古墳は2番目の築造。古墳の向こうに榛名山のシルエットがうっすらと見えた。

 前方部に向かい、水のない外堀から堤を上ると、人物や動物の埴輪を配列した区画があった。王の七つの儀式の場面が、よろいを着けた武人、飾りをつけた馬、鵜飼い、鷹狩りなど54体によって表されている。

 墳丘は3段に築かれ、6千本以上の円筒埴輪が取り囲んで悪霊の侵入を防ぐ。斜面はおびただしい数のふき石(川石)で補強。復元された今も堂々と白く浮き立ち、王族の権威を見せつける。築造は「農閑期の冬に行われたのではないか」と学芸員は話した。

 高さ10メートルの後円部の頂上から階段を下りると王の体を収めた舟形石棺が展示されていた。

 昼食に利用した休憩棟の入り口にも、盾を持つ埴輪や円筒埴輪が立ち並んでいた。

 午後の目的地の発掘情報館は、かみつけの里博物館からバスで約40分の、利根川沿いを北上した高台にあった。

 2階の資料展示室には、国内で初めて発見された、火砕流で被災した古墳人のレプリカが透明なケースに収められている。有名な「甲(よろい)を着た古墳人」は身長163センチの成人男性で、両ひじを曲げ、両膝を付き、うつ伏せの状態だという。ほかに、「首飾りの古墳人」、別のよろいのレプリカなどを見ることができる。

 古墳人は2012年、榛名山の北東のふもと、金井東裏遺跡から発見された。榛名山の噴火は6世紀初頭。地表から3メートル下には人骨だけでなく、人の足跡や竪穴住居、畑などがそっくり残っており、重要な遺物が出土した発掘調査区域は小さい立体模型で再現されている。

 案内してくれた専門調査員によると、歯のエナメル質の分析から飲み水の成分がわかり、よろいを着た男性も首飾りの女性も天竜川上流の伊那谷周辺の生まれ育ちと推定されるという。

 隣の収蔵展示室は、道路などの建設工事別に土器・石器などの遺物をまとめ、年代別に棚に並べてある。解説の掲示はないが、古墳時代にも縄文土器が残っていたことがわかる。

 八幡塚古墳の見学中は名物「上州の空っ風」もなく穏やかな日和。発掘情報館の案内役はかつて20年間、西東京市の隣の小平市に住んでいて親近感が伝わってきた。交通渋滞もなく、楽しく充実感に満ちた例会となった。(下の写真は左から、八幡塚古墳後円部の舟形石棺、よろいを着た古墳人の複製)
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