見て、聞いて、再発見 上野寛永寺と上野公園


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北多摩自然環境連絡会のウオッチング活動は5月22日、東京・上野の寛永寺と上野公園であり、16人が参加。知らなかったスポットや解説を楽しんだ=写真は徳川綱吉らの霊廟の勅額門。

連絡会の事務局を担当し、東京都公園協会の市民向け学習事業で講師を務める豊福正己さん(71)が企画、案内した。

JR山手線鶯谷駅南口を午前10時すぎに出発。右手の上野公園へ向かい、突き当たりの道を右へ。江戸幕府4代将軍・徳川家綱ら3人の将軍が埋葬される第一霊廟(れいびょう)と5代将軍綱吉ら3人が眠る第二霊廟の勅額門を柵越しに見る。二つの勅額門は共に戦災を免れ、国の重要文化財

寛永寺の境内では、寛永寺への功績をたたえる了翁禅師塔碑(都旧跡)、旧本坊表門などに据えられていた鬼瓦、家綱の一周忌につるされた銅鐘(台東区有形文化財)、虫類の写生画帳を残した藩主の遺志を継いで建てられた虫塚碑(都有形文化財)などの史跡を丹念に見て回り、根本中堂は中に入って参拝した。

寛永寺の正面から出てまっすぐ進み、東京芸術大学の右に美術学部、左に音楽学部を見る通りを進む。観光バスが何台も駐車し、修学旅行の生徒ら人の姿が急に増えた。

東京音楽学校奏楽堂(重要文化財)は明治時代半ばに建設された日本初の本格的な音楽ホールで、日本唯一の空気式パイプオルガンもあるというが、建物の外観と入り口近くに鎮座する滝廉太郎銅像を見るだけ。大名屋敷表門として最も格式が高い旧池田屋敷表門は遠目に見て直進し、開山堂へ。

開山堂は寛永寺を開山した天海大僧正慈眼大師)と、天海が尊崇していた良源大僧正(慈恵大師)の二人をまつることから「両大師」とも呼ばれる。

東隣の山門は、上野戦争の時の弾痕が残る寛永寺旧本坊表門。この門から入り、左手にある明治の文豪幸田露伴の旧宅の門をくぐり、開山堂前の道を渡って大きなクスノキの木陰で弁当を広げた。

参加者から「65歳以上は無料」との情報提供があり、食後、国立科学博物館に企画展「100年前の東京と自然―プラントハンター ウィルソンの写真から―」(6月16日まで)を見た。植物学者の英国人が撮影したサクラ、イチョウのごく一部は今も残る。日本の代表的なサクラのソメイヨシノは「エドヒガンとオオシマザクラの雑種」と初めて述べたのがこの人とは知らなかった。

午後は公園を散策。野口英世像を皮切りに、大学病院の建設計画を覆し明治政府に上野の山の公園化を提言した「ボードワン博士像」、軍務で要職を務める一方で日本赤十字社の総裁を務めるなど、皇族が公務とする社会活動の礎になったといわれる小松宮彰仁親王銅像と巡る。

徳川家康・吉宗・慶喜をまつる上野東照宮では唐門、御三家の銅燈籠(とうろう)、高さ6メートルの「お化け灯籠」などについて豊福さんから説明があったが、参道を少し外れた所のモニュメントで「広島・長崎の火」が30年近く燃え続けていることは、多くの人が知らないようだった。

地震と火事で4回も首が落ち、今は顔だけがレリーフとして保存されている上野大仏、大仏復元を願って建立された仏塔パゴダ、花園稲荷神社、花園神社の旧跡とされる「穴稲荷」を経て、清水観音堂(重要文化財)へと階段を上る。観音堂の舞台に立つと、枝が輪をつくる「月の松」が目の前にあり、円の中に不忍池の弁天堂が遠望できる。

古墳時代朝鮮半島百済から渡来した学者王仁(わに)の顕彰碑、天海大僧正が没した本覚寺跡に建てられた天海僧正毛髪塔(都旧跡)、元禄のころに13歳の娘が名句を詠んだことにちなむ推定9代目ヤエベニシダレの「秋色桜(しゅうしきざくら)」にも立ち寄った。

散策の終わりは、知名度の高い彰義隊の墓、そして西郷隆盛銅像彰義隊の墓は、上野戦争で戦死した彰義隊士が荼毘(だび)に付されたが、墓石には「戦死之墓」とだけ刻まれ、隊の名はない。西郷隆盛像が建つあたりは「武蔵野台地の先っぽ」と豊福さん。武蔵野台地に住む私たちにふさわしいゴールとなった。

今回の散策では幕末の寛永寺を中心とする復元地図が参加者に配布された。東京国立博物館や中央噴水池など随所で古今の位置関係が説明され、約400年の時間を行ったり来たりする楽しみも味わわせてもらった。
(下の写真は、輪の向こうに弁天堂が見える「月の松」、上野東照宮境内のモニュメントでともる「広島・長崎の火」)
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