ネットで見られる「保谷民博」資料2万点 飯田教授が博物館建設にエール

保谷民博」から受け継いだ民俗資料について話す国立民族学博物館の飯田教授

画像で収められた「保谷民博」の民俗資料

 国立民族学博物館大阪府吹田市、民博)の飯田卓教授は7月3日、西東京市柳沢公民館で開かれた講演会で、旧保谷市にあった民間の民族学博物館(保谷民博)から受け継いだ民俗資料約2万点をデータベース化して公開していると述べた。

 

 講演会は今春発足した「地域博物館を創(つく)ろう連合会」(近辻喜一会長、3団体)と市公民館の共催。約50人が参加した。

 

 講演に先立ち、近辻会長は国指定史跡で縄文中期の下野谷(したのや)遺跡と保谷民博を指して「西東京市には二つのレガシーがある」と語り、地域博物館の実現を訴えた。

 

 保谷民博は、実業家・渋沢栄一の孫の渋沢敬三や地元の大地主の息子の高橋文太郎らが1939年に日本民族学会の付属博物館として開館した。本館で民具、野外で民家などを移築展示し、日本初の野外博物館とされる。

 

 戦時中は疎開を受け入れ公開は中断。1952年に博物館法が施行されると、国が認める展示施設として再び公開され、遠足の目的地になったという。

 

 しかし、このころから学術団体に国立民族学博物館を設置する動きが高まり、62年に展示場は閉鎖。保谷の資料は東京の文部省の施設に一時保管され、75年に開館準備が進む大阪へ運ばれた。

 

 飯田教授は「保谷に集まった博物館資料の現在」と題した講演で、保谷民博が管理していた資料約2万1千点とこれらを収集した350人・団体をデータベースに収めたと紹介。

 

 資料は大小が極端なものや破損して廃棄されたものなどを除いて画像を取り込んだ。保谷在住の人が保谷で集めたものは122件あるという。保谷民博の人物・資料データベースのURLはhttps://ifm.minpaku.ac.jp/hoya/

 

 保谷民博は戦後の再閉鎖後も財団機能を担う事務局は1999年まで残っていた。現在は跡地に「民族博物館発祥の地」の説明板が立つだけとなり、日本民族学会が日本文化人類学会に改称(2004年)したことで西東京市との結びつきはますます薄くなった。

 

 飯田教授は西東京市に博物館が建設されれば、「大阪民博から保谷民博の資料を貸し出して展示できるはず。地元で見られることを祈りたい」とエールを送った。