保谷・幻の民族学博物館 東京郊外だったわけは?

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 日本最初の野外博物館で大阪・千里の国立民族学博物館の前身とされる、保谷にあった民族学博物館をめぐる講演会とジオラマ見学会=写真=が1128日、西東京市西原総合教育施設内の郷土資料室で開かれた。
 
 東京文化財ウイークにちなみ市教委が主催し、約20人が参加した。
 
 講演したのは、「渋沢敬三今和次郎」の著書がある国立公文書館アジア歴史資料センター丸山泰明さん=写真下。
 
保谷民族学博物館は現在の東町1丁目に1937(昭和12)年に開設され、62年閉館した。
 
丸山さんは、直接的には地主の高橋文太郎が土地を提供したためとしながらも、「立地がなぜ都心でなく郊外だったのか」を考察。
 
丸山さんによると、渋沢敬三は東京を博物館と公園で囲み、市民の安らぎの場とする都市計画を考えていた。今和次郎は結婚して保谷に住み、農村の特徴を生かした生活を送った。また高橋文太郎は鉄道事業者として保谷に文化の香り高い学園都市をつくろうとしていたと話し、博物館建設の中心人物3人の共通性を解き明かした。
 
丸山さんは「博物館の歴史はこれからのまちづくりにも参考になるのではないか」と述べた。
 
講演の後、参加者たちは2年前に市民有志が製作した、150分の1の大きさの博物館敷地全体のジオラマを見学し、製作に当たった人たちから苦心談を聞いた。
 
参加者からは「民具を陳列したり収蔵したりする本館だけでも市に再建してほしい」などの声が出ていた。
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