マスク拒否男と大ネタ「子別れ」と 権太楼独演会

 柳家権太楼独演会が9月25日、三鷹市芸術文化センターであった。笑いに行ったはずが、そうはならなかった。

 

 午後2時の開演数分前、目の前で主催者側の見慣れた担当者が、客席の男性になにかを懇願している。その客席は私の前の左隣。マスクの着用を求め、土下座までしていたようだが、客は言葉少なに何度も拒否。

 

 開演時時刻が迫り、説得を断念した担当者が帰り際に渡そうとしたマスクを、客は通路に投げ捨てた。客の前列にいた老夫婦が席を立ち、会場から出て行った。

 

 私は心穏やかでなく、ただ固まっていた。男の隣にいた友達同士と見える若い女性も平静を装っていた。私の右隣の高齢男女はマスクなし男を小声で非難していた。

 

 新型コロナに起因するトラブルに初めて遭遇し、今日は高座に集中できないだろうなと予感した。

 

 定刻より少し遅れて緞帳(どんちょう)が上がり、前座、二ツ目の後に番組前半を締めた権太楼の演目は「お化け屋敷」。屋敷の借り手を同じ手で追い払う筋書きは、円熟した語り口と相まって安心して笑うことができる。

 

 しかし、マスクなし男が気になって、時々彼の後ろ姿に目をやるが、笑っている風には見えなかった。せめてものエチケットとして笑いをかみ殺しているのか。そうまでして見に来たかったのか。

 

 中入り後の演目は、前半の高座で「ゆうに1時間半はかかる」と予告していた大ネタ「子別れ」。夫婦の破綻と愛情、親子の絆が三部作で語られる。

 

 笑いがほとんどない人情噺(ばなし)のせいか、集中力が切れたのか、上・中とも声がよく聞き取れず、物語の展開が追えないでいた。

 

 それが「ちょっと、休みましょう」と権太楼が一息入れ、飲み物に手を伸ばしたとたんに会場に大きな笑い声が起き、私も我に返った。

 

 このあと下の「子は鎹(かすがい)」は明瞭に聞き取れた。ストーリーはどこか聞き覚えがあった。下だけ上演されることもあるというから、昔、耳にしたのかもしれない。

 

 75歳の大ベテラン噺家の芸に、じんわりと熱いものがこみ上げた。終演直後、後ろから「泣きそうになっちゃた」と女性の小さな声が聞こえてきた。そうですねと心の中でつぶやいた。腰を上げたときにはマスクなし男の存在をすっかり忘れていた。