遺構も復興も 濃密だった東松島日帰りバスツアー

震災遺構の旧野蒜駅プラットホーム。津波は線路も曲げた

70人が避難して命拾いした、高さ約30メートルの私設避難所「佐藤山」

 東京-仙台を日帰りで2月1日、宮城県東松島市の震災復興バスツアーに参加した。

 

 東日本大震災の被災地の復興状況を自分の目で確かめたいと考えていたところに、東北地方の経済団体がつくった「東北ファンクラブ」からメールで東松島バスツアーの情報提供があった。

 

 仙台駅発着で同市の野蒜(のびる)地区をピンポイントで訪ねる。売り文句の「震災伝承と復興による魅力」がそこに詰まっていそうな内容にひかれた。

 

 旅行日は10日あり、代金は昼食込み1万円。旅行代金は参加申し込みの後に国の全国旅行支援で2千円が戻り、土産や食事に使える2千円の地域限定クーポンが付くという望外の幸運に恵まれた。

 

 午前4時起床、大宮に至る3本の電車と新幹線の定時運行と胃に痛みにおびえながらも、午前9時前、集合場所の仙台駅東口観光バス乗り場に到着。「3.11伝承ロード」のロゴや東北地方の地図をラッピングした大型バスが待っていた。

 

 バスの座席表は2座席に1人で、催行人員ギリギリ16人の参加だった。私は8日を希望したが、後日旅行会社から「1日なら実施できそう」と電話があり、日程変更したのだった。旅行商品自体が不人気なのか、新型コロナの影響が長引いているのか。

 

 バスは高速道の仙台東部道路三陸自動車道を走り、1時間足らずで丘陵地の野蒜市民センターに到着。震災時の津波で家屋を流失した語り部防災士の山縣嘉恵さんが集団移転団地の造成の経過や被災地で大麦栽培が進んでいることなどを説明した。

 

 このあとバスに乗り、山縣さんのガイドで車窓から団地を見学。野蒜地区の全住民のほぼ半数の約1300人が集団移転したという。小学校、保育所、集会所、交番、クリーニング店などがあり、購買人口に足りなくてもスーパーが1店営業している。

 

 いったんセンターに戻り、私設避難所の「佐藤山」へ。震災前から津波避難所の必要性を感じていた地元の佐藤善文さん(88)が20年以上前に岩山を買い、階段やあずまやを整備し、70人の命を救ったという。

 

 山縣さんの説明を聞いているとき、佐藤さんがそばに来ていることがわかり、本人から詳しい話を聞くことができた。佐藤さんは「山には桜やモミジ、ユリもあり、海が見える。公園らしく整備して多くの人に楽しんでもらいたい」と話した。

 

 震災時にJR仙石線の下り列車が停止し、乗客の判断で車内にとどまっていたため津波被害を免れた「奇跡の丘」まで、佐藤山から歩いて行った。線路跡は遊歩道になり、列車の停車地点に説明板が立っていた。海からの高さは約10メートル。

 

 昼食は防災体験型教育施設「KIBOTCHA(キボッチャ)」で。1階が天井まで水没して廃校となった小学校だというが、被災の形跡は見当たらなかった。キボッチャは「希望」「防災」「未来(フューチャー)」を組み合わせた造語。

 

 午後は市の震災復興伝承館を訪ねた。旧野蒜駅を改修した施設で、復興の様子を記録した写真パネルなどが置かれ、壁の上部に津波の高さを表す線が引かれていた。2階には被災したままの傷だらけの券売機が残されている。

 

 住宅を次々と破壊する津波の威力や被災者インタビューを収めた映像を見て外に出ると、津波の力でグニャッと曲がった線路がプラットホームの下に見えた。プラットホームを中心に周辺一帯は復興祈念公園として整備され、モニュメント形式の慰霊碑と亡くなった人の芳名板が安置されている。

 

 行き帰りのバスからは、海が見えるように防潮堤を低くして道路を高くする工夫がよくわかった。人気の海水浴場があり、奥松島観光でにぎわう野蒜地区に「目隠し堤防」は似合わない。集団移転に伴うまちづくりと同じように、防災工事も行政と市民のよい関係があってこそなのだろう。