「内藤新宿」の面影探し新宿歩き

すり鉢地形の底で新宿・荒木町の栄枯盛衰を見て来た「むちの池」

甲州街道1つ目の宿場町・内藤新宿ジオラマ=新宿歴史博物館

 江戸四宿の一つで、甲州街道最初の宿場町「内藤新宿」を歩く催しに6月7日、参加した。

 

 集合場所はJR総武線・中央線千駄ヶ谷駅千駄ヶ谷は新5千円札の顔・津田梅子が創設した津田塾大学のキャンパスがあり、藤井聡太さんの大活躍で知られる将棋の聖地・将棋会館は2024年に移転の予定と、旬の話題が紹介された。

 

 ここから昼食をはさんで約4キロのまち歩き。最初の立ち寄り先、新選組隊士・沖田総司が病死した地と伝わる屋敷跡は小さな説明板がアジサイの花に埋もれ、見逃しそう。

 

 多武峰(とおのみね)内藤神社は高遠藩内藤家の下屋敷にまつられていたが、下屋敷が明治政府に接収されたため現在地へ。内藤家の屋敷地は新宿御苑一帯の広大なもので、宿場として開設された内藤新宿も旗本屋敷を返上するなど、もとは内藤家の領地だったという。

 

 内藤新宿の道と宿の風景は午後に区立新宿博物館でジオラマを見ることになっている。

 

 境内の片隅に三菱鉛筆の前身の鉛筆製造所跡は説明板があった。甲州街道外苑西通りなどが交わる四谷4丁目の大交差点辺りが地上を流れる玉川上水の終点の「大木戸」ということだった。ここから地下の水路で江戸市中に向かう。

 

 玉川上水の水量を調節したりごみを取り除いたりした水番所の跡地を示す看板があった。近くには四谷地域センターなどが入る公共施設があり、水道局の新宿営業所も同居していた。歴史上、水つながりがあってのことらしい。

 

 新宿御苑大木戸問の近くには「内藤新宿開設三百年記念碑」が夏草に隠れていた。「新都心・新宿の出発点となった内藤新宿の歴史と先人の歩み」(碑文)を記念して1997年に建立。こちらは、にぎわいつながり。

 

 新宿御苑環境省の管轄だけに芝生も下草も手入れが行き届いている。大木戸門からまっすぐ進んだ先に広がる玉藻池は内藤家の庭の面影をとどめているという。タイザンボクが大きな白い花をたくさん咲かせ、カメラを構えた人たちが大勢取り巻いていたのが印象的だ。

 

 昨年12月、苑内に開館した新宿御苑ミュージアムは主に映像と音声で御苑の歴史や文化を伝える。「ここに来ればガイドは要らない」とガイドさんに言わしめた。

 

 新宿通りの料理店で昼食をとった後、荒木町と新宿歴史博物館を訪ねた。荒木町について何の知識も持ち合わせていなかったおかげで、歩を進めるたびに魅力度が高まった。

 

 荒木町へは新宿通り北側の車力門通りの坂を下る。飲食店が多い。突き当たりのとんかつ屋は名物おやじのいる繁盛店とか。この先も下り坂が続き、すり鉢状の地形を意識する。

 

 見上げると急で長い階段。パリの丘にある「モンマルトルの坂」と呼ばれているそうな。細い路地、石畳、料亭風の店構えは風情がある。

 

 荒木町は江戸時代、松平摂津守の壮大な庭園だった。明治初期、池のほとりには茶屋が軒を連ね、滝もあって市民の遊覧の場所に。やがて茶屋は料理屋に代わり、芸妓(げいぎ)が現れ、芸者置屋・待合・料亭の3つがそろった花柳界として発展する。昭和初期に全盛を極めたが、1983(昭和58)年に業界団体が解散して花街は90年の幕を下ろした。

 

 花街の名残は「策(むち)の池」に見られる。関東大震災に見舞われ、当初よりもずいぶん小さくなったという。すり鉢地形の底に当たり、大きなスッポンが人気者になっている。モンマルトルの急坂は避け、短い階段をいくつも上る遠回りルートですり鉢の底から脱出した。