翌7月27日は旅館の朝食から一足飛びに新潟県で昼食、午後から「火焔型土器しばり」で県内3カ所を回り、午後7時30分までに下諏訪に戻るという強行軍。高速道路を使っての長旅とあってマイクロバスは小型バスに代わった。
南魚沼市郊外のドライブインで、魚沼地方の名物とされる「へぎそば」を食べた。そばのつなぎにフノリを使っていて喉越しがよい。入れ物は四角い「へぎ」ではなく、すのこ敷きの丸い浅鉢だった。
十日町市博物館は以前と全然印象が違うと思ったら、3年前に新築移転したという。外観は縄文土器の線刻や雪の結晶模様をイメージした白亜の建物。立体地形にまちの自然や歴史を映しだすプロジェクションマッピングも目新しい。
ここの国宝・火焔式土器は「1件」にしか数えられないが、深鉢型57点(王冠式を含む)をまとめてのものだ。この中でも造形美が際立つ2点を交互に展示しているという。この日は5年前に東京国立博物館に貸し出したものがガラスケースの中でスポットライトを浴びていた。
「火焔式は約500年間続き、なぜ跡形もなく消えたのか」
「展示してある土器の残存率が9割だったように、見つかった土器に失敗作がないのは専門集団がいたのではないか」
「煮炊きに使ったのだろうが、毎日は使わない。30回ぐらいで掛けるから」
いろいろと興味深い話を聞くことができた。
残存率が95%だったもう一つの国宝土器は復元に4年かかり、3DデータをとったりCTスキャンで検査したりして実物大の焼き物を作るのに500万円かかったという。レプリカも思いのほか高価だ。
このあと火焔式土器の国宝指定第1号が発見された笹山遺跡に移動し、出土した当時の状態を再現した「土器モニュメント」を見た。逆さに埋められ、底がなくなっている。遺跡ガイドの人は「その意味はわかりません」と言った。近くにあるマンホールのふたは火焔式土器と雪の結晶をデザインしてあった。
バスは最後の見学場所の長岡市へ向かう。同市の馬高縄文館は別名を火焔土器ミュージアムという。これまで見てきた火焔式と火焔は違うのか。
同館の専門員は「元祖、火焔土器」と話した。火焔土器は1936(昭和11)年ごろ馬高遺跡から発掘された1個の土器。これに類似する文様を持つ土器類を火焔型と呼ぶ。「これが標準となって火焔型という分類が生まれたのです」。それでいて国宝よりランクの低い重要文化財だ。
火焔土偶も9割が本当の破片で、これも底の部分がなかった。信濃川中流域から約100個体が出土し、7~8割が残っていて形もよいという。
縄文時代に光が当たるのが遅かったのか、発掘場所などの氏素性がはっきりしていないのか。「王冠型土器も元祖」(専門員)とあっては、長岡市が気の毒に思えた。