田無小校庭から出土の銃や刀 郷土資料室で展示始まる

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 昨年夏、西東京市立田無小学校の校庭から出土した銃砲や刀剣(銃剣)などの一部が724日、市民に初公開された。市教育委員会が「身近にあった戦争資料」と題し、市郷土資料室(西原町4丁目、西原総合教育施設内)で特別展示している=写真は塊の状態で出土した銃器類。

 展示は、焼却時の高熱で溶けて塊となった銃器類や木製部分が焼失し金属部がさびた軽機関銃、歩兵銃、銃剣のほかバケツ、ラッパなど計19点。

 発見時には手りゅう弾や銃砲弾(空砲)を含めて計約2900点が埋まっていたが、多くは警察に引き渡されたという。

 当時は謎だったことも少しずつわかってきた。

 銃や銃剣、手りゅう弾などはその構造から、実戦では使えない訓練用のものとわかった。市教委によると、第一次世界大戦以降、学校などで軍事教練が行われるようになって多くの教練銃が作られたり、実戦用の銃が払い下げられて教練用に改造されたりした。今回展示した教練銃3丁の部品には教練用を示す刻印が読み取れるという。

 なぜ廃棄場所が小学校の校庭だったのかは不明のままだが、終戦直後に地元の警察署長が銃器類の即時廃棄などを要請する文書の写しが学校に保管されていた。

 また同校に保管されていた配置図には、敷地内に「銃器庫」があり、青年学校で使用する教練用の銃器類を保管していたとみられる。

 当時、校長住宅は発見場所の近くにあり、当時の校長が「銃などもみな田無に集めて、ガソリンをかけて焼いた。その火勢で校長住宅のガラスが割れたほどだ」と、同校の創立百周年記念誌の中で語っていたこともわかった。

 市教委は「小学校という身近な場所から銃器類が出土したことは、当時、人々の生活が戦争と隣り合わせで存在していたことを雄弁に物語っている。あらためて戦争の歴史を考えるきっかけになれば」と参観を呼びかけている。

 特別展示は9月28日まで(午前10時~午後5時)。月・火曜は休み。

(下の写真は軽機関銃、歩兵銃)
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「法華経は監督一代で作られた」 公開講座で戸田教授

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 武蔵野大学仏教文化研究所の連続公開講座「大乗経典の魅力を語る」の2回目が7月6日、同大武蔵野キャンパス(西東京市)であった。戸田裕久・立正大教授=写真=が「法華経、気宇壮大な物語」と題して話し、約180人が聴き入った。

 戸田氏は、法華経サンスクリット語の写本と『妙法蓮華経(妙法華)』の記述に基づき、各章(各品<かくほん>)の概要を紹介。

 見宝塔品(けんほうとうほん)には、大地から巨大な宝塔が出現して空中に停止するというスペクタクルな場面があるほか、一つの世界に仏は一人のはずなのに、はるか昔の多宝如来と生身の釈尊が宝塔の中の座席に並び座る「二仏並坐(にぶつへいざ)」という珍しいことも起きる。戸田氏は法華経を「連作戯曲」「ドラマ性の高い経典」と表現した。

 法華経は原典が成立した地域、年代、一時に成立したのか段階的か、作者は誰か―と成立過程をめぐる様々な学説がある。

 戸田氏は私見として、法華経の制作は監督の指揮下で、共通の主題を与えられた複数の脚本担当者が数章ずつ分担して自由に執筆。この脚本を説法師が読むとき、演者の裁量で加えたアドリブの出来がよければ脚本に加筆される。それらの全てに目を通して経典の文句として認可する制作総合責任者または監督がいたのではないかと言う。

 そして成立までの年月は制作総合責任者の一生涯を超えない、「せいぜい100年以内」とし、監督者の死去とともに制作は打ち切られ、完結したとみる。

 悪人の成仏を描く提婆達多品(だいばだったほん)が後代の作とされることに対しても、挿話は法華経の中でも中核的なもので、他の章とほぼ同時期に作られたか最古級、とした。

 他の章に比べるとやや不謹慎な表現を含むので、通し上演の演目から外されることがあり、提婆達多品を含む版と含まない版が用意され、それぞれ別人が翻訳(漢訳)した、との見方を述べた。

俳優田中哲司 太宰の2作品を朗読

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 太宰治の作品を演劇人が朗読する「太宰を聴く」が7月20日、三鷹市芸術文化センターであり、俳優の田中哲司さんが2作品を朗読した。

 朗読会は19回目。田中さんが選んだのは、作家と作品のモデルになったと思われる女性をめぐる短編小説『恥』(昭和17年)と、裏商売を手伝って羽振りのよい雑誌編集者の愛人縁切り作戦を描いた『グッド・バイ』(昭和23年、未完)。

 朗読会に先がけて行われた今年の太宰治賞の受賞者インタビューで、阿佐元明さんが「太宰は句読点の打ち方がうまい」と語ったのを受け、田中さんは「私は『気持ち』で読みます」。

 田中さんは、下読みで『恥』が22分、『グッド・バイ』43分だったことを明かし、1枚を読み終えると原稿用紙を床に散らした。

原稿には、女性の発言のかぎかっこを赤色にしたり、音響効果の入る箇所を書き込んであったりと、手の内を明かしながら書き進む太宰の文体にも似た演出。幕あいと終演後には大勢の観客が舞台に近づき、興味深そうに原稿に見入った。


『グッド・バイ』を読み終えた田中さんは「(太宰作品は)ユーモアがあるのが好き。読みあさってください」と話した。

立川市・国分寺市・国立市 線路跡地の緑道を歩く


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 西東京市ウオーキング協会の7月のミニウオーキング11日、立川・国分寺・国立の3市を通る緑道で行われた=写真は立川市・栄緑道入り口。

 今年の梅雨は雨の日が多いが、この日は夕方まで雨の心配がない予報。23人が参加し、多摩モノレール立飛駅からJR中央線立川駅付近まで約2時間、約5キロのコースを楽しんだ。

 緑道はこのうち約2キロ。戦時中は立川飛行場へ、戦後は米軍立川基地へ立川駅から分岐して物資を運ぶ引き込み線だった。

 一本道だが、市境が入り組んでいるため北から順に栄緑地(立川市)、西町緑地(国分寺市)、北緑地(国立市)と名前が変わる。

 立飛駅から東の芋窪街道に向かう。寺の前の街道を渡ると、アーチ風のモニュメントが漢字とローマ字で「栄緑道」の入り口を教えてくれる。イチョウ並木がしばらく続く。

 栄緑道は1600メートルと3つの緑道で最も長い。幅2メートルほどの道は緩やかなS字が連続して動線をつくる。両端までの距離を示す標識が数カ所あり、ジョギングの人には便利そうだ。

 道の両側にはトチノキケヤキ、ウバメガシ、コブシなどの高木、ツツジ、ツゲなど低木の植え込みと緑が途切れることはない。

 熟して落ちたヤマモモの実が足元に散らばっていたり、道沿いの造園業者の畑のヤマボウシがこの時期に花を咲かせていたりと、小さな驚きにも恵まれた。

 国分寺市に入ると、交差点ごとに市名と西町緑地を併記した看板が設置されている。道は直線となり、花壇づくりに力を入れているように見えた。

 やがて、緑のトンネルとなったフジ棚が現れ、その先には田無駅北口広場の「平和のリング」に似た芸術的なアーチ状のモニュメントがあった。どちらにもレールが使われており、数少ない鉄路の遺構と言える。ここは国立市の北端に当たる。

 ただし、レールの由来を説明する表示はどこにもない。緑道全体を通しても廃線跡地の整備とわかるものはない。歴史的評価に値しないのか、3市が足並みをそろえるのが難しいのか。釈然としないものが残った。

 レールのモニュメントの先は大きな岩を積み並べた水路やグラウンドなどを整えた北第一公園。ここでしっかり休憩をとって立川駅へ向かい、手前の曙橋交差点で解散した。
(下の写真は国分寺市・西町緑道始まり、緑道南端の国立市・北緑地の出入り口)
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天空の絶景 蔵王・お釜ツーリング(その2)

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 蔵王町遠刈田温泉のホテルでは午前5時半ごろ、目が覚めた。いつものようにベッドの上でストレッチ。温泉に軽くひたってから朝食バイキングの会場へ。食欲は衰えておらず、ひと安心=写真は絶景を見せた蔵王のお釜。

 身支度を整えて玄関を出ると、霧雨が降っていた。朝のテレビの天気予報では宮城県は「曇りのち晴れ」。気を取り直して雨具を身に着け、フロントで聞くと、「下は霧でも、お釜付近は晴れている」とライブ映像で確認してくれた。

 半信半疑で午前8時20分、愛車にまたがる。ホテル前の赤い鳥居をくぐり、濃い霧の中の蔵王エコーラインを上る。

 左手に蔵王寺がぼんやりと見え、境内と思われる空き地にバイクを置く。リンを鳴らすと住職さんが法衣姿で出てきて、寺の由緒やこの辺一帯が昔は火山岩に覆われ「賽の磧(さいのかわら)」と呼ばれていたことを話してくれた。

 しかし、なにぶんにも視界が悪い。寺の周辺を少々歩き回ってから、10メートル先が見えない山岳道路を上り続けた。数十分たち、乳白色の世界から脱出。目に痛いほどの青空と木々の緑が飛び込んできた。

エコーラインの右手に蔵王山頂お釜入り口となる蔵王ハイラインへの導入路があった。この分岐点の手前に設けられた駐車場にバイクをとめる。雲海の上に白い飯豊連峰が望める。駐車場では登山準備をするグループがいた。

 エコーラインを横断すると、高台に向かう木の階段がある。「大黒天」と名付けられた登山道の入り口。登山コースの案内板のあるところまで登ってみた。五色岳の荒々しい岩肌が目の前に広がった。

 蔵王ハイライン蔵王山レストハウスの駐車場付近に至る2.5キロの有料道路で、バイクは380円。午前10時ごろ着いたが、同好の士は見当たらなかった。

 レストハウスの裏の一本道を少し進むとエメラルドグリーンの水をたたえたお釜が見える。火山灰と岩だらけの斜面を下りるとお釜の展望台。右の坂を上ると刈田嶺(かったみね)神社奥宮に達する。そこは刈田岳(かっただけ、標高1758メートル)の山頂でもある。

 お釜の展望台はバスツアーの団体客でにぎわっていた。70代と見える男性は「朝の雨でどうなるかと思っていた。素晴らしい景色を見られて、すごく得をした」と話した。

 奥宮にも行った。拝殿近くに取り付けてある温度計は12度を示していた。山頂には石積みがいくつもある。わずか下に避難小屋が見え、登山者が腰を下ろしていた。

 レストハウスの付近でツアーガイドらしい女性が、「お釜と朝日連峰、飯豊連峰の両方がこんなにはっきり見られるのは珍しい」と教えてくれた。高山植物の女王と呼ばれるコマクサの花を遊歩道の脇に見つけることもでき、バンザイを叫びたい気分に駆られた。1時間を超える長居ともなった。

 コマクサは、遠刈田温泉への帰途、駒草平でもたっぷりと見た。行きは霧の中だったが、帰りは晴れ渡り、赤茶色の土と岩石の大地に孤高に生きるコマクサをよその家族と競うように夢中になって探した。

 お釜を源流とする落差28メートルの不帰(かえらず)の滝、2段に落ちる振子滝もはっきりと見えた。

 ここからエコーラインを下ると間もなく霧の中に突入し、いくつかの滝の展望台は通過。下界は霧が消え、遠刈田温泉街に入ると正午を過ぎていた。「賛久庵(さんくあん)」の看板が目に留まり、下調べにあったそば屋と思い出した。

 この時、今日の旅の最後は、きのう雨で通過した遠刈田温泉街を散策してグルメも楽しむことにした。まずは「蔵王のそば」。そばの種類で悩みたくないなと思い、一枚メニュー「夏季限定 うなぎのせ ねばとろそば」(税別1250円)を見ていると、「それにしますか」と問われ、つい「はい」と答えてしまった。ウナギのほかはとろろ、オクラ、モロヘイヤを盛る。

代金を払う時、店主が「今月から始めたばかり」と言い、常連客が新メニューのヒントをくれることやウナギの仕入れ先まで話す。もてなしの気持ちの強いまちなのかな。

観光案内所の向かいの無料駐車場にバイクを置き、すぐそばの蔵王刈田嶺神社に寄る。共同浴場「神の湯」の無料の足湯は見るだけ。蔵王通り商店街の奥に豆腐店「はせがわ屋」を見つけ、店に入って「豆乳ソフトありますか」。一般的なソフトクリームのように機械から絞り出す。1個280円。

ソフトクリームをなめながら、来た道を戻る。「壽(ことぶき)の湯」という共同浴場がもう一軒あった。新しさと古さがうまく同居して元気のある商店街に見えた。

午後1時半、遠刈田温泉を出発。国道457号一本で白石市に出た。国道4号から東北道・白石ICに入り、安達太良SAで休んだ後は休憩なしで午後6時半ごろ西東京市の自宅に着いた。この日の走行距離は389キロ。
(下の写真は刈田岳山頂と奥宮、お釜への遊歩道脇のコマクサ)
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天空の絶景 蔵王・お釜ツーリング(その1)

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 蔵王の火口湖・お釜を見たくて7月7日、西東京市の自宅から1泊2日のバイクツーリングに出た=写真は蔵王町遠刈田の「こけし橋」。

 インターネットで情報を集め、宮城県蔵王町の観光案内所からどっさりパンフレット類を送ってもらい、万端の行程表を作り上げての出発だったが、ぐずつく天候が続く今年の梅雨はこの朝も小雨を降らせていた。

 晴雨兼用のジャケットの下はカッパのズボンをはき、ブーツカバーを付けて午前7時半ごろ、自宅を出発。大泉インターチェンジIC)から乗った圏央道の途中で雨がやみ、東北道・大谷パーキングエリア(PA)で雨具を外す。

 那須辺りでは気温18度の表示板が見え、少し寒さを感じていると、やがて電光掲示板が「本宮~村田は雨」を伝える。時速80キロ超で走っていれば、霧でもずぶぬれ。ほとんど手遅れの状態だったが、着ないよりはマシと国見サービスエリア(SA)で雨具を再度着用。同じ目的のバイクが何台か入ってきた。

 このあと、宿泊先の蔵王町遠刈田(とおがった)温泉のホテルまで雨がやむことはなかった。

 国見SAを出る時、すでに正午を過ぎていた。計画より1時間遅れ。白石ICで下り、昼食予定の白石市内の「うーめん番所」に入った時は午後1時に近かった。

 雨なのに、なかなか繁盛しているようだ。店のおばちゃんが椅子の座布団の上にビニールを敷いてくれた。「吉永小百合さんが食べた」という「葛(くず)かけうーめん」を勧められるままに選び、これも勧められるままに「みそおにぎり」を追加した。

 葛かけうーめんは、(たぶん)鶏のささ身、ゆでエビ、ササ竹のタケノコ、麩(ふ)、キャベツ、ニンジンなどが具材でヘルシーな印象。白石うーめんは油を使っていないのが特徴という。つゆはあっさりしたしょうゆ味だった。体が温まる。代金は1180円(税別)。

 1時間余りの遅れは取り戻せず、気力もさほど湧かないので、県道254号(南蔵王白石線)からそれるキツネ村の見学を断念。「弥治郎こけし村」に立ち寄るだけでホテルへ直行しようと決め、店を出た。

キツネ村のほか、254号~県道51号(南蔵王七ヶ宿線)~国道457号遠刈田温泉に向かうルート上にある蔵王酪農センターやみやぎ蔵王こけし館にも立ち寄らず、遠刈田温泉街をぶらつくこともあきらめた。「雨天でも営業しています」と書いたキツネ村の看板が恨めしい。

 弥治郎こけし村には展示室や絵付け体験コーナーなどを備えた2階建て円形建物を中心に見学できる工房3棟、こけし神社がある施設。弥治郎は江戸時代に成立した半農半工の集落の名前だという。

展示室を一周すると、伝統こけしの制作工程や様々な大きさと絵付けの弥治郎こけし、東北各地の伝統こけしを楽しめる。職員の話では、弥治郎地区の人が遠刈田温泉を中心として発達した遠刈田系こけしの技術を持ち帰ったのではないかと言う。入館は無料。

遠刈田温泉街を南北に分ける松川。ここに架かる遠刈田大橋の欄干の両端4カ所に大きな伝統こけしが立ち、「宮城伝統こけし発祥の地」とこけし産業をPRしていた。通称「こけし橋」。伝統こけしは全国で10系統しかないことを考えると、白石市の弥治郎こけし村に立ち寄ってよかったと思う。

国道457号から県道12号(蔵王エコーライン)が分岐する近くのホテルには予定より少し早い午後4時前に着いた。シングルルームの予約だったが、部屋が空いているとのことでツインルームになった。

温泉大浴場につかり、バイキングの夕食と生ビール中ジョッキ1杯で十分に腹を満たした。ご当地グルメを観察する余裕はなく、ビールをお替りする気も起きなかった。

食後もう1度温泉に入ってからスマートフォンをこの日初めて確認したところ、知り合いから電話の着信歴があった。メールで返そうと、文章を作っていたら指がどう動いたのか途中で送信してしまった。疲労感に我ながらあきれ、午後10時前に就寝した。本日の走行距離は365キロ。
(下の写真は、うーめん番所の葛かけうーめん、弥治郎こけし村の本館=いずれも白石市
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国宝・火焔型土器に質問集中 郷土文化会が新潟・十日町市へ

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 西東京市郷土文化会の7月例会は2日、34人が参加し新潟県十日町市博物館を訪ねた。

 最大のお目当ては、昨年夏、国立東京博物館で開催された特別展「縄文―1万年の美の鼓動」で国宝の土偶とともに人気を集めた火焔(かえん)型土器。

 ひも状や帯状の粘土を貼り付け、立体的でダイナミックな装飾を施した火焔型とその仲間の王冠型土器を含め、展示された十数点すべてが十日町市博物館の所蔵品だ。

 火焔型土器は一つ一つが国宝なのではなく、「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」とひとくくりで国宝指定された900点余りの出土品の一部。この中には深鉢形土器が57点あり、このうち火焔型が14点、王冠型が3点ある。

 同博物館学芸員の阿部敬さんによると、火焔式土器の装飾は現代のユニフォームや紋章のようにアイデンティティーを表す象徴と考えられ、ほぼ新潟県に相当する地域で作られた。

使われた期間は、今から5300年前~4800年前の500年間と、縄文時代の土器としては短い。それも、「伝統的な要素をどこにも残さずに消えた」という。

火焔型土器が新潟県縄文時代中期を代表する土器ならば、郷土文化会のメンバーの多くが住む西東京市には全く同時代の下野谷(したのや)遺跡がある関係から、阿部さんの解説が終わっても質問が続出。

実用性だけでない土器の役割、粘土の調達地、美しく復元するのに必要な残存率などについて丁寧に答え、「国宝の火焔型土器は年に3回、展示替えするので、あと2回見に来てください」とPRを忘れなかった。

同博物館は来年6月に新館がオープンする予定だ。国立東京博物館では壁や床が深紅に彩られた特別な部屋に遇された火焔型土器。今は下駄箱のような収納棚に入っていたり、その前の台に何の飾りもなく並べられたりしている。「縄文の美」は、地元の新しい舞台でどんな見せ方をしてもらえるのだろうか。