法隆寺金堂壁画 公開への課題語る

 戦後火災で焼損した奈良・法隆寺金堂の壁画(国重要文化財)の活用策などを考え合う講演会「法隆寺金堂壁画 一般公開へ向けて~提言から読み解くこれから10年の展望~」(法隆寺など主催)が2月23日、東京・有楽町朝日ホールで開かれた。

 

 焼損した壁画は如来や菩薩が12面に描かれ、現存する国内最古の仏教絵画とされる。焼けた柱などとともに境内の収蔵庫で保管されている。

 

 収蔵庫は原則非公開で、近年は一般公開へ向けた調査研究のための寄付者や1日の人数、見学期間などを限定して公開した。

 

 提言は(1)管理マニュアルの整備(2)収蔵庫の改修(3)壁画の価値評価のための調査研究の継続―を基本方針とする内容。法隆寺金堂壁画保存活用委員会が8年かけてまとめ、昨年5月に寺に提出した。

 

 講演会では委員会に携わった文化庁や大学の専門家が提言の概要や委員会の歩みを語った。小椋大輔・京都大大学院教授は、限定公開時に収蔵庫の入り口となる前室を拡張したり除湿器を設置したりしたことが保存環境を安定させるのに効果があったことをデータで示した。

 

 今後は絵画が描かれた土壁を同じ材料で作り、変化を観察することで劣化リスクを予測できる可能性があるとした。

 

 朝賀(あさか)浩・皇居三の丸尚蔵館副館長は高松塚古墳キトラ古墳の壁画発見により金堂壁画の影が薄くなったことを指摘し、金堂壁画を未来に伝えるためには「国民を巻き込んだ保存のうねりをつくることが必要」と述べた。

 

 座談会で古谷正覚(しょうかく)法隆寺管長は「一般公開を通して文化財を守る大切さを知っていただきたい。(そのためにも)焼損したオリジナルの壁画を見ていただきたい」と話した。

東大の田無演習林に学ぶ 公民館が講座

都市の中の森林・田無演習林について説明する助教の前原さん

特別に公開されたマツの苗畑。霜よけに枯れた松葉がかぶされている

 西東京市保谷駅前公民館主催の環境講座は2月17日、東京大学大学院附属田無演習林(緑町1)で初めて行われ、20人が参加した。

 

 東京から消えてゆくなかで残る都市林や屋敷林の魅力と大切さを、現地を訪れて専門家らに教えてもらうのがねらいだ。屋敷林の高座は24日、下保谷4丁目特別保存地区(旧高橋家屋敷林)が予定されている。

 

 東大演習林は北海道、関東、東海地方に計7カ所あり、全体の面積は東京都23区のほぼ半分にあたる約3万2300ヘクタール。田無演習林は約8ヘクタールで、最も小さい。

 

 セミナーハウスでの講座では、同演習林助教の前原忠さん(56)が「都市の中の森林について」と題して話した。

 

 同演習林は戦後まもなく周囲がほとんど畑だったが、1970年代から宅地化が進み、現在まとまった畑と森林があるのは東大演習林と旧東大農場だけになったことを航空写真で示した。

 

 都市の中の森林の管理については、現在の森林(樹木)の状態や人のかかわり方、動植物の状態を把握したうえで、将来どんな森林にしたいかという目標を設定するなどの手順を説明。市と市民団体が、武蔵野の雑木林の面影を残す公園づくりと取り組む西原自然公園の事例を紹介した。

 

 午後は前原さんの案内で外周の見学路を歩いた。人の手を加えないと林がどう変わるかを観測する区画や本来標高の高い地帯で育つカエデが東京の平地で育つかを調べる見本林、外国産や品種別のスギやマツの見本林のほか、花の時期に見学者が訪れるハンカチノキやヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)、樹高が最も高いメタセコイア林の落葉した姿を見た。

 

 幹の直径や木の高さを測る専門の道具や器具の実演と体験、一般には公開されないマツの苗畑見学もあり、参加者たちは楽しみながら森林への理解を深めた。

「縄文の始まりと終わり」 世界遺産記念フォーラム

世界遺産「北の縄文」の魅力や価値を考えたフォーラム

 北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録2周年を記念するフォーラムが1月28日、東京・千代田区有楽町朝日ホールであり、約700人が参加した。

 

 「縄文時代の始まりと終わり」と題して講演した根岸洋・東京大学大学院人文社会系研究科准教授は、土器が出現した1万5千~1万6千年前の寒い氷河期末期が縄文時代の始まりと考えられ、定住はしていないと話した。

 

 縄文時代の終わりには、稲作農耕が行われる弥生社会と北・東日本の晩期縄文社会が併存しており、九州と本州北端では400年以上の地域差があったという。

 

 世界遺産となった縄文遺跡群(構成資産)は17カ所あるが、定住開始という縄文時代の始まりを示すのは大平山元(おおだいやまもと)遺跡(青森県外ヶ浜町)。

 

 その次の展開として集落(ムラ)が成立し、その中で居住域と墓域が分離した姿を示すのが垣ノ島遺跡(北海道函館市)だ。それぞれの遺跡を発掘調査した専門家が特徴や整備状況などを報告した。

 

 弥生時代の専門家を交えた意見交換では、謎が残る土器の出現や時間がかかった稲作の北上、弥生時代の戦闘などについてパネリストが見解を披露。

 

 コーディネーターを務めた岡田康博・三内丸山遺跡センター所長は「世界遺産の価値や魅力は現地を訪れてこそわかる。ぜひ楽しんで旅をして」と参加者に呼びかけた。

当選は最後の年賀状

一抹の寂しさを感じさせる今年限りの年賀状

 今年もらった年賀状25枚のうち1枚が3等に当たっており、1月19日に郵便局で切手シートを受け取った。

 

 差出人は、30代後半に知り合った同業他社の友人。私と同年配で、彼は緑内障による視力障害が進み、今年で年賀状を出すのをやめる、と書いていた。

 

 今年が最後の年賀状と書いてきた人がもう一人いて、こちらは元の会社で少し後輩。「体にガタがきた」「今後はメールか電話で」という。

 

 妻も目や消化器などが悪くなり、今年は出してくれた人にだけ「最後とする」趣旨を書き添えて出したという。みんな、そんな年齢になったのだなぁと寂しい気持ちになる。

 

 転勤の多い職種とあり働き盛りのころ出すのは100枚を下ることがなかった。退職後は少しずつ減らし、今年は入社同期、転勤先で大変お世話になった人、親類などに絞り、過去最少の34枚だった。

 

 減らしこそすれ全面ストップは考えたこともなかったが、身辺に具体的な動きが複数現れてくるとそうもいかない。早ければ秋にも、はがき代が63円から85円に値上がりしそうでもあるし。

津波被害乗り越える 三陸の漁労文化

三陸の漁業者を支える「海への信仰」が紹介された講座の会場

 大人の休日俱楽部趣味の会主催で1月13日、「三陸漁師を支える海の力」と題する講座が東京・千代田区であり、約50人が参加した。

 

 講師は東北大学災害科学国際研究所の川島秀一さん。三陸沿岸の漁師町には(1)エビス(2)船霊(ふなだま)(3)龍神-の言葉で表せる海への信仰があり、「漁労文化として東日本大震災後も受け継がれている」と話した。

 

 「エビス」は七福神の一柱ではなく、自身で寄り上がったり、魚を追い込んだり、魚を引き連れてきたりする生物をこう呼び、特にクジラが多くまつられるという。

 

 船に宿る船霊津波の襲来を鳴いて知らせる。甘いものが好きで、どうも女性神のようだ。帆柱の根元や舳先(へさき)の下部に紙や木を切った人形(ひとがた)をご神体として納める。

 

 竜神は海の底から上がってくる。津波の後に龍神龍王)をまつる石碑を立て、石碑に紙絵馬を貼り付ける習俗がある。「失せ物絵馬」と呼ばれる絵馬は、海に落とした包丁、モリなどの金物の絵を描き、時には射止められなかった獲物も描いて神社に奉納する。

 

 川島さんは、三陸沿岸の漁師は明治以降だけでも何度も津波に見舞われているのに、東日本大震災の後でさえも「海からずっと恩恵をもらってきた。離れられない」「海は太平洋銀行だ」と答えてくると言い、「ピンチをチャンスに変える、たくましい精神性」と称賛した。

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 大地震と大津波に襲われた三陸地方を今年こそバイクで巡り、震災遺産と復興の様子を見たいという計画を前提に、この講座に参加した。

 

 気仙沼に生まれ育ち、漁労文化を長い間研究してきた川島さんは三浦半島や長崎にも調査の足を延ばしており、講座は説得力があってしかもわかりやすい。

 

 ツーリングで訪れる予定の津波襲来の碑も、碑文や説明板を読んでどれほど深く理解し想像できるだろうか。漁師と会えるかわからないし、会話が漁労文化にまで及ぶとは考えにくい。

 

 その意味で講座は大変有益だった。能登半島地震の被災地の漁業者の皆さんも、三陸のように立ち直れるのだろうか。

 下町と山手 江戸最古級の七福神めぐり

谷中七福神めぐりのゴール、上野・不忍池弁天堂は30分待ちの長い列=1月6日正午すぎ

弁財天の石像を岩穴にまつる=1月8日、東京・目黒区の蟠龍寺

 コロナ下ですっかりなまった体力が少しは回復することを期待し、年初、東京都内の二つの七福神めぐりツアーに参加した。

 

 1月6日は谷中七福神、8日に山手七福神。後で気づいたのだが、前者は「江戸最古」、後者は「江戸最初」を旗などにうたい、長い歴史を誇る。下町と山手の対比も面白い。

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 谷中七福神めぐりは西東京市の主催。体力づくり教室の一つで先着80人を募り、午前8時に西武新宿線田無駅北口に集合。4班に分かれ、9時半、JR田端駅から東覚寺(福禄寿)~上野・不忍池弁天堂(弁財天)の約7キロを歩いた。

 

 3連休の初日、しかも日中はポカポカ陽気が予想されたが、出発が早かったせいか午前中は各寺への人出は少なかった。昭和レトロな雰囲気が人気の谷中銀座商店街は店舗の多くが準備中で、先頭のグループは約20分間の自由時間を持て余し気味。

 

 それでも正午過ぎにたどり着いた不忍池はさすがに家族連れなどでにぎわっており、弁天堂の参拝まで30分待ちだった。

 

 このコースには4番目の長安寺(寿老人)と6番目の護国院(大黒天)が靴を脱いで本堂に上がらなければならず、足腰の弱い高齢者などにとって混雑時の拝観は厳しそうだ。

 

 参加者の安全・安心を守るため先導する班長らスポーツ推進員や市職員は3回以上現地を訪れ、順路やトイレ、休憩場所などを確認したという。自動体外式除細動器AED)も携行して手際のよい引率ぶりではあった。

 

 しかし寺や七福神の特徴を要約した小冊子を配布しただけで見どころなどの現地ガイドはほとんど聞くことがなく、官製イベントの物足りなさを残した。

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 「元祖山手七福神めぐり」は大手新聞社の主催。募集20人のところ、12人が参加した。この種の日帰りウオーキングは、昼食込みの場合、インターネット申し込みで9900円(税込み)。

 

 遠方からの参加も見込み集合時刻は午前11時、東京メトロ都営地下鉄白金高輪駅の出口3地上。いつものようにNPO法人東京シティガイドクラブの人が付き、ガイドレシーバーに説明を送ってくれる。

 

 白金高輪駅からは覚林寺(毘沙門天)~瀧泉寺恵比寿神)の6寺をめぐり東急東横線不動前駅で解散する約3.5キロ。

 

 片側4車線の広い目黒通り沿いに、10分かかないほどの間隔で三つの寺があり、目黒通りについても「江戸時代は尾根道でした。周りは大名の下屋敷」とガイドの説明が耳に入ってくるから、歩いている間も退屈しない。

 

 3カ所を参拝しビストロで昼食。大きなローストビーフがメーンディッシュだった。

 

 後半は明暦の大火の火元となった大圓寺(大黒天)から修験者が行き来した行人坂の急坂を下る。坂上からはビルの谷間に富士山がほんの少し頭をのぞかせ、坂の途中には有名な芸能事務所のホリプロがあった。

 

 蟠龍寺(ばんりゅうじ)は岩穴に弁財天の石像をまつり、「岩屋弁天」と呼ばれている。異質な音楽スタジオを備えているのも面白い。

 

 最後に訪れた瀧泉寺(りゅうせんじ)は、「目黒不動尊」と言った方が通りがよいかもしれない。恵比寿神は仁王門の両側にのびる塀の外側の、門からもかなり離れた小さなお堂に安置されている。

 

 この日は石像が堂の外に鎮座して存在を主張していたが、大本堂や水かけ不動への人出と見比べ、七福神めぐりの期間が過ぎれば不遇をかこつのではないかとあらぬ心配をするのだった。

ひばりタイムス「ニュースから撤退」を惜しむ

 西東京市を中心に周辺の自治体をエリアとする地域報道サイト「ひばりタイムス」が12月5日、「年内でニュース更新を停止する」と報じた。残念という言葉しか見つからない。

 

 ひばりタイムスの編集長、北嶋孝さんを初めて見かけたのは西東京市議会の傍聴席だった。私はそれ以前から、西東京市から発信する地域メディアの少ないこととその内容に不満を持っており、ネタの宝庫である市議会に足しげく通った。そして本会議だけでなく、委員会質疑もできるだけ聴いて新聞記事風にまとめ、ブログに上げていた。

 

 傍聴席には私と北嶋さんの2人しかいないことが珍しくなく、北嶋さんから私に話しかけてきたと記憶する。

 

 北嶋さんは私のブログを見たらしく、「新しいサイトを計画している。随時でよいので執筆の手伝いをしてもらえないか」と誘いをかけてくれた。

 

 それが10年前のことだ。私は何度もお断りした。記事を書いて発表する以上は、自分自身の十分な取材が必要なことはもちろん、校閲や編集(レイアウト)など他者との信頼関係も大切だ。その辺がよく見えない。「随時」と言ってもらっても、だらしない態度はとりたくない。

 

 あれから10年の年月を経て、ひばりタイムスは大手紙に伍(ご)して市長の記者会見に同席する位置を確保し、執筆にはメディア関係者OBや市民活動家などが加わり、近隣市のニュースや話題も増えた。

 

 私のブログといえば、市議会通いがめっきり減り、最近は市がホームページで公表する記者発表資料にも関心が薄くなり、個人的な生活記録と言うべき「日記」ふうのコンテンツが多くなった。コロナ禍の期間に脳血管の病気がわかり、手術や入院生活に伴う体力の衰えが地域ニュースを提供する使命感や気力に大きく影響していると思う。

 

 このような、つとめて私的な事情から、ひばりタイムスの「休刊」を惜しむのだが、「編集部の高齢化」「組織体制の未整備」「財政状況の悪化」「システムの老朽化」と北嶋さんが自ら指摘したサイト運営の課題はどれも重く、今日までのご健闘に拍手を送ってやまない。