新堀用水・小川用水に小平の昔を知る

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 北多摩自然環境連絡会主催の「北多摩の緑と水と歴史を訪ねる」は93日、小平市で行われた。(写真は玉川上水の上水小橋付近)
 
 シリーズ3回目のこの日は玉川用水に並行して流れる新堀用水や分岐した小川用水をたどりながら、小平市の母体となった小川村の名残を見た。
 
 多摩地方各地から15人が参加し、小平市玉川上水を守る会の庄司徳治さんが案内した。
 
 西武拝島線玉川上水駅に集合し、南口から緑道を下流へ少し進んだところで、立川段丘から武蔵野段丘に変わり地表が1~2メートル高くなるとの説明があった。
 
 ウォーキングとはひと味違い、この先でも小平監視所の役割や主な設備の概要が東京都下水道局の資料を使ってわかりやすく説明された。監視所横の右岸の歩道地下には昭島市にある都の水再生センターの処理水が流れてきて、いったん左岸の分配槽に入ってから上水小橋付近で放流され、目に見えるようになる。
 
 一行は小橋を渡って左岸の緑道を歩いた。この地下に、新堀用水につながる水路、その少し北側に東村山浄水場行きと野火止用水行きの、合わせて3本の水路があるという。新堀用水の水は東村山浄水場と同じ多摩川羽村堰から取水した原水だ。
 
新堀用水が開通したのは1870年(明治3年)。玉川上水に舟を通すため、北側にあった7カ所の分水口をふさぎ新堀用水1本に統合した。地表を掘り下げるのでなく、縦穴を何カ所か掘り、それぞれの底から横に掘り進んでつなげたトンネルは「胎内堀」と呼ばれる。柵に囲まれて開く穴、マンホールのふたでふさがれた穴など縦穴の跡が今も残る。最初の約900メートルがトンネル。
 
小川橋の手前で、庄司さんは玉川用水に舟運があったころの舟だまり(河岸)を描いた図を見せて解説した。毎年、右岸の草刈りをして遺構を見やすいようにしていると言うが、一目ではわかりにくい。
 
 新堀用水の上流側から小川橋の下をのぞきこむと、小川用水に分岐する水門が見える。元の分水口はもっと上流にあり、庄司さんは埋め立てた跡とわかるのり面を撮った写真を持っていた。
 
 小川橋から左手の立川通りを行く。やがてコンクリートの下に小川用水の開口部が現れ、細い流れの先に彫刻の谷緑道が設けられている。水辺に下りて手を差し込んだ人が「うん、冷たい」と叫んだ。
 
 小川用水は、玉川上水が完成した2年後に岸村(現武蔵村山市)の小川九郎兵衛が新田開発とともに玉川上水からの分水を願い出て許され、小川新田(のちの小川村)を誕生させた。現在は小川橋から立川通りに沿い、途中で上宿小の東側を北上、上宿公民館付近から青梅街道の両側を東へ流れる。
 
 日枝神社、小平神明宮、小川寺(しょうせんじ)と小川村の開祖、小川九郎兵衛ゆかりの場所にはすべて用水が巡らされていた。自動車教習所から水車通りを南下し、新堀用水に戻ると、水車橋付近に水車跡があるという。林の片隅に、夏草に隠れてコンクリートの小さな壁が向きあって立っていた。
 
 玉川上水駅を出発し、昼食を挟んで鷹の台で解散するまで約5時間、約7キロ。見逃していたり、案内板がなかったりするスポットが多く、庄司さんと主催者に感謝した。