細長い短冊形の地割が眼下にはっきりと見て取れた。前日の雨のおかげか、野菜や茶の葉の緑も鮮やかだ。江戸時代の元禄期に開拓され、埼玉県の文化財(旧跡)に指定されている三富(さんとめ)開拓地割遺跡。地上5階の高さから展望する機会に恵まれた。
北多摩自然環境連絡会の観察活動「ウオッチング」は5月28日、「三富新田開発の歴史を訪ねる」をテーマに、10人が参加して行われた。新型コロナウイルス対策で「密」を避け、バス停北原からバス停地蔵前まで約6キロの行程だ。
三富新田は、もとは牛馬の餌にする草や肥料にする枯れ葉、燃料のまきなどを入り会いで採取する原野だったが、川越藩主となった柳沢吉保が開拓を命じて畑作地に。
開拓地は、幅6間(約11メートル)の道路の両側に住宅を配置し、1戸の間口が40間(約72メートル)、奥行き375間(約675メートル)、面積5町歩(約5ヘクタール)と均等になるように短冊形に地割した。
三富は埼玉県三芳町上富と所沢市中富・下富の総称で、開発が一応完成した時点で180戸が入ったという記録が残る。
展望屋上があるのは、40戸が入植したとされる中富地区の中富小学校。校舎の端に、教室と遮断された「社会見学用建物」があり、1階と屋上を階段で上り下りする。途中、踊り場で窓の外を見て「ここでいいよ」と弱音を吐いていた人も、南北方向に短冊形の地割が広がる美しいる景観に疲れを忘れたよう。西側からは富士山が見えた。
中富小はいつでも屋上を開放しているわけでなく、事前予約が必要だ。この日は時間の都合で予約を取っていなかった。だが、最初に訪れた中富民俗資料館の見学が終わろうとするころ、当番で資料館の管理に来た郷土民俗資料保存会の人が屋上からの展望を強く勧め、親切にも学校側の了解まで取り付けてくれたのだった。
中富小からは多聞院へ向かう。校舎に近い畑でカリフラワーの収穫をしている人がいた。この畑の中の道を通してもらえれば予定よりも近道になる。しかし、たいていの農家は病害虫を持ち込まれるのを恐れて他人の立ち入りを嫌う。ダメもとでお願いしてみると、通り抜けを快諾してくれた。
この農家は、昔は5ヘクタールあった面積は戦後の農地解放や後継者不足で今では1ヘクタール余りの人が多く、他人への貸し出しも増えていると近況を話してくれた。
多聞院からは木ノ宮地蔵堂、多福寺とたどった。どこも三富の開拓と密接な関係がある。開拓の拠点が地蔵堂を中心とする「地蔵林」に置かれ、農民の精神的なよりどころとして中富に毘沙門社(現在の多聞院毘沙門堂)、上富に菩提(ぼだい)寺の多福寺が創建されたという。
多聞院の境内は弁当を広げられる場所がなく、隣接する神明社で短い昼食休憩をとった。この神社には、干ばつや凶作から農民を救ったサツマイモのオブジェが「なでいも」としてまつられているが、コロナ対策で「手を触れないで」の張り紙があった。
毘沙門堂の前にはこま犬ではなく、細身のトラの石像が対で置かれている。堂を囲む廊下の欄干は「身代わり寅(とら)」と呼ばれる小さな黄色いトラの置物で埋め尽くされていた。トラは毘沙門天の使いだそうだ。
多福寺境内には開拓当初に掘られた「元禄の井戸」が唯一残っている。三富はもともと水の乏しい土地なので、約22メートルの深井戸を11カ所掘らせ、共同利用させた。それでも足りず、カヤを刈って日陰干しにしたもので手足をふき入浴に代えたと伝えられているという。元禄の井戸はコンクリートでふさがれ、さらに外側に柵が巡らされ、近づくことはできなかった。