門をくぐると石碑があり、上部の片方に猿の顔が彫られている。「雨上がりなので今日は顔がよくわかります」とガイドさん。猿の向かい側は壊れていて、何が彫られていたかわからないという。
公園は横十間川に面し、昭和の初めまで貯木場だった。近くのグラウンドには1万3千人以上の遺体が仮埋葬されたという。
四ツ目通りを南に向かい、江東西税務署交差点を右へ。右手に重願寺があり、境内に「みまもり観音」像が立つ。像は奈良・薬師寺の国宝、聖観世音菩薩像を原型とし、大きさは2倍。墓地の角には無縁仏を弔う塚が黒く焼け焦げた跡を残している。墓地には大空襲のあった3月10日が命日と刻まれている墓碑が多い。
入館前に「世界の子どもの平和像」の前で、主催者側の人から像の説明あった。ひびの入った大きな卵とヒマワリに水をやる少女の像は中学生のデザイン。都内の高校生らが2年間、募金活動を続け、1千万円を集めて21世紀最初の子どもの日に除幕した。
広島・平和記念公園に「原爆の子の像」が建ち、それに感動した米国の子どもたちが原爆発祥の地ニューメキシコ州に「子どもの平和像」を建てて世界に平和像作りを呼びかけたのが、東京でも作るきっかけという。子どもたちは当初、平和像を夢の島の第五福竜丸展示館脇に置きたかったが、都に断られ、当時の戦災資料センター建設予定地に仮設置されたままになっている。
戦災資料センターでは東京大空襲を特集したテレビ番組を見た後、14歳で大空襲を体験した竹内静代さん(87)が疎開のため東京駅に向かう途中で見た焼け野原や避難する人々の様子などを話した。戦時中の教育については「天皇のため、国のために生きるのだということが自然と身に着き、日本が『神国』であると信じて疑わなかった」。
竹内さんは戦争の時代とは何だったのかを語っていくのが自分の役目と語る。「今は希望をもって生きていける時代。平和のために、やれることでいいからやってほしい」と呼びかけ、動く折り鶴を見学者全員に手渡した。
1階の映像・講話室には空襲を描いた絵画や米軍が撮影した焼け跡の写真、被災の規模を表した地図などが、2階の展示室には灯火管制下の部屋が再現され、束ねて落とす焼夷弾の原寸模型とバラの焼夷弾の実物、高熱で溶けた生活用具などが展示されており、あちこちで熱心に質問する光景が見られた。(下の写真は重願寺所蔵のB29のプロペラ、世界の子どもの平和像、戦時中の教育を語る竹内静代さん)